戦国乱世最大の謎?!
明智光秀は何故信長を討ったか?2018
                                          ーNPO法人ヒストリーツーリズム美濃ー

約20ほどの説あり。(多くの説が生まれた因は真実が故意に隠されたことにあり。信長亡き後、天下を奪取した秀吉が己に 不都合な文書は全て処分させ、記録は書き換えられたことにある)

 
明智光秀
清和源氏の土岐氏の支流である明智氏に生まれ、出生は『明智軍記』『細川家文書』からは1528年とされる。
父は大垣の山岸信周(のぶかた)    母はお市の方(9代城主光綱の妹
妻は於牧の方、妻木(つまぎ)(のり)(ひろ)の娘)光秀公家譜覚書によれば1552年(天文20年)12月5日に輿入れをしている。

明智城主光綱には世継ぎがなく、妹の子光秀を養子縁組し、10代城主とした。

1556年(本能寺の変の26年前)、道三・義龍父子の争い(長良川の戦い)にて、道三側にいた光秀は、斎藤義龍によって落城し浪人となる。
浪人後の光秀ははっきりしないが、足利義昭に仕えた説、越前国守の朝倉義景(よしかげ)に仕えた説など明らかではない。

  1565年室町幕府13代将軍・足利義輝が三好三人衆や松永弾正によって暗殺されると、その弟の義昭は姉婿である若狭の国守・武田義統(よしずみ)のもとに逃亡。
直後、足利義昭は織田信長を含む各地の武将に上洛と自身の将軍擁立を促し、細川藤孝(幽斎歌人でで有名)が使者に立ち信長はこれを了承した。

翌年1566年、義昭は織田・斎藤両家の間に和睦を結ばせたが、信長がこれを破ったため義昭は信長に見切りをつけ朝倉義景を頼ったが義景は動かない。そこで光秀は、信長のほうが勢いがあり力があると義昭に助言した。(『細川家記』)
二年後1567年義昭は再度斎藤氏から美濃を奪取した信長に対し、上洛して自分を征夷大将軍につけるよう、今回は光秀を通じて要請したので、光秀はこの時、信長と会見することとなった。これを成功させた光秀は1568年の15代将軍義昭の上洛にも加わった。信長の正室である濃姫(道三娘)が光秀の従兄妹であったことも影響したか。


  15代将軍足利義昭(等持院所蔵)

織田信長(加藤正明作)
この後の1569年、光秀は将軍義昭と信長との二君に仕えることとなり、事実上の京都奉行となるが、同年、信長は義昭を奉じて上洛するが義昭は更に上杉や毛利にも上洛を促し幕府再興を望み、信長は 「天下布武」を掲げ天下統一を目指し意見の食い違いで決別する。

翌年、信長は将軍から離れた立場で正式に昇殿し、朝廷より天下静謐執行権を与えられる。

1571年光秀は、義昭と信長に従軍し摂津に出陣し、比叡山焼き討ちでも武功を上げた結果近江国を与えられ坂本城の築城に取り掛かった。

1573年義昭は信長に対し挙兵したが、光秀は、義昭と袂を別って信長の直臣として参戦講和交渉成立寸前に松永弾正の妨害で破綻となり、再度槙島城で挙兵した義昭は信長に降伏し、追放されたがそれは信長が支配する美濃・三河・畿内だけのことであり、依然北陸・中国・九州に於ては義昭は征夷大将軍であり続けた。(~1588年『公卿補任』)

光秀は1575年
朝倉氏滅亡後越前の占領行政を担当し、従五位下惟任日向守となる。

1577年雑賀攻めに従軍し、信貴山の戦いにも参戦。

1579年丹波を平定更に丹後も平定に成功。

1580年丹波一国を加増され、南山城を含め滋賀をあわせ畿内一円を支配する。

1581年京都御馬揃えの運営を任される。『明智家法』を定め、後書きに「瓦礫のように落ちぶれ果てていた自分を召しだしそのうえ莫大な人数を預けられた。一族家臣は子孫に至るまで信長様への御奉公を忘れてはならない」という信長への感謝の文を書く。そんな想いの中で

明智光秀は何故信長を討ったか? 理由は単純ではなく下記の説の複合したもの

長曾我部元親
 有力説①光秀は四国攻め阻止のため信長を討った。
当時、四国は三好一族(秀吉派)と長曾我部元親(光秀の縁戚石谷頼辰が元親の家老でその弟が齋藤利三)が勢力争いをしていた。
光秀は信長への元親
懐柔を命じられていた。そのため、齋藤利三の娘を元親の正室として嫁がせ、光秀はこの外交交渉を成立させた。
信長はこれに対し元親へ四国一国の安堵の朱印状を渡した。
その後、元親は殆ど四国全土を制覇したが、信長は四国平定の方針を四国全土から二国のみと秀吉の助言に因って変換したため、再び元親と対立し光秀の立場は窮地に立たされた。

本能寺で信長を討った直後には、信孝に四国攻めを命じていた信忠を二条城で討ち取っている。しかし、この5ケ月前元親は四国全土の安堵から四国二国の切取りという信長の条件を承諾した書を光秀に送っているのである。この時、移動を続けている光秀には届かなかったのである。(右、石谷家文書)
 
石谷家文書2014/9に発見
有力説②信長の乱世を阻止し平穏な足利幕府再興を!
鬼才信長を信頼していた光秀も信長の目に余る暴走と映って来ると信頼も不信感に変わる。
信長は比叡山焼き討ちを実行し、僧侶・僧兵及び住民を3・4千人焼き殺した。
また、敵武将を匿ったという疑いで光秀の美濃源氏同族であった恵林寺の快川国師(天皇から賜る号)他150名の僧侶を焼き殺した。
主君信長は家臣に対し実力主義を貫いてきたが一族重用に転換していて光秀の近江・丹波の所領没収を命じている。
更に信長は安土城の下に天皇が居る清涼殿を造り「予自らが神体である」と言ってのけ、ついには、「天皇の大権」である暦まで口を出し正親町天皇まで支配するようになった。有史以来武士が天皇の上に立つことは光秀には考えられなかった。
この時、柴田勝家は上杉景勝と羽柴秀吉は毛利輝元と戦い、また、三男織田信孝は長曾我部元就と戦いの準備中である。
長男の織田信忠は徳川家康の接待中であり織田信長は自身の接待を家康に安心させるため2・30名の家臣と本能寺にいるのである。
用意周到な信長を取巻く重臣は光秀一人であり、本能寺の変は光秀にとって千歳一隅の好機であった。

2016年に見つかった本能寺の変の後、美濃の武将西尾光教宛に光秀は書状を送っている
「信長父子の悪逆、天下の妨げ故打ち果し候」。
また2017年に発見された、雑賀衆の武将土橋重治宛の書状には足利幕府再興の旨が書かれ(右書状)、NHK大河ドラマ『麒麟がくる』決定の因となっている。

土橋重治宛光秀書状(拡大)

羽柴秀吉(加藤正明作)

中国大返し
有力説③猿智恵の秀吉も信長を討とうとしていた?
信長によって対立競わせられた光秀と秀吉の二人であったが、信長に対する不信感が一致の上共謀か。
しかし、この共謀の発覚を恐れた秀吉が光秀口封じのため裏切った。
その訳は秀吉の「中国大返し」である、毛利の高松城から山崎までの約200kmを7日で2万人の軍を移動の記述は後に書き換えられたものである。特にぬかるみの中、二日目の約80kmの進軍は不可解極まりない。
現代科学のシュミレーションによれば、最短でも10日の工程であり、本能寺での信長討死の知らせが着く前の6月3日に高松城を出発しなければ山崎の戦と日時が合わない。
本能寺の変より前に毛利側の高松城主清水宗治と和睦を済ませば、信長討死の情報が毛利が知ることはないし、毛利の追手の心配も必要ないのである。その後、秀吉は天下を制し初めて藤原以外で関白となったのである。他人を押しのけても自分が出世する精神は現代の日本一の大学にも受け継がれている。だが、秀吉は辞世の句通り「露と落ち露と消えにし我が身かな浪花の事は夢のまた夢」と寂しい最期であった。

徳川家康(加藤正明作) 
 家康共謀説④信長が家康を討とうとした!
家康の武田攻略を労うため安土城で歓待し、長男秀忠を案内役に京や堺を見物させ家康の40名の家臣より少ない2・30人を引き連れ本能寺に入り家康を待った。
この本能寺で家康を討つように光秀に命じていたからである。用心深く慎重な家康が自分を狙っていることを承知で少数の家臣のみで信長の招きに応ずることは考えられない。
光秀と裏で結ばれていたからである。
光秀軍の足軽『本城惣右衛門覚書』には「我らは家康様を討つものと思っていた」とあり、スペインの司祭ルイス・プロイスの記述によれば信長は家臣ヤスケに「自ら死を招いたな」と言い残したと言う。ドラマのセリフ「是非も非ず」と一致する。
自ら作った策略に自らが落ちたことになる。
まさか、自分の信頼する光秀が自分を討つなどと夢にも思っていなかったのである。

本能寺の変の後、家康は光秀の娘婿である喜多村出羽守に「先年の伊賀越えの際、身を粉にして敵を追い払い比類なき働きに感謝する」と細川家家臣三宅家史料から家康書状も発見されている。
本能寺の変の後6月6日には光秀から依頼の甲斐平定のため、徳川諸大名宛に「甲斐へ築城するように命じている。
この説が事実とするなら家康が三代将軍家光の乳母に光秀の縁戚であり重臣である斎藤利三の娘、福を抜擢したことに納得するであろう。
また更には光秀が南光坊天海であるというロマンにも結び付いていく。
 
南光坊天海

喜多村出羽守宛家康書状
(細川家臣三宅家史料)
   NPO法人ヒストリーツーリズム美濃  
     
明智光秀クリアファイル(1枚300円)
     


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