明智光秀

 明智城十代城主

(可児明智城址・長山城)


2017年これが起因!NHK大河ドラマ『麒麟がくる』を決定づけた!!
戦国乱世最大の謎「明智光秀はなぜ信長を討ったか」

「信長乱世に区切りをつけ足利幕府再興を!」光秀書状発見!!


                                              NPO法人ヒストリーツーリズム美濃

明智家
築城と落城の215年間歴代藩主
 土岐明智家家紋 クリ 明智光秀クリアアファイル(300円)



明智の祖 頼兼 
1342年                   1556年
明智光秀肖像画

明智光秀系図(東京大学史料編纂所蔵)
築城                  斎藤義龍
により

落城
         
 
 頼兼







 

                                                  

明智光秀 
 享禄元年(1528年8月17日)可児郡(現可児市)明智城にて生まれる
父=石津郡(現大垣市)多羅  山岸信周(のぶちか)
母=可児郡(現可児市)明智城第9代城主 光綱の妹 お市の方
お市の方が山岸信周の許に嫁ぎ 享禄元年8月 実家明智家の祝い事に招待された折り、急に産気づき四男を出産した。
実家光綱には世継ぎがなく、実父信周。実母お市の方の承諾の上、養子縁組家督を相続させたのが、第10代可児明智城主 明智光秀である。                      (史料:明智氏一族宮城家相伝系図書《東京大学史料編纂所》) 
光秀の妻は妻木(現土岐市)の妻木範熙の娘・於牧の方であり、明智光秀公家譜覚書(林則夫氏所蔵)によると天文20年(1552年)12月5日に輿入れしており、弘治2年(1556年9月26日)斎藤義龍の攻略による可児明智城落城まで可児に住む。
天正10年 (1582年6月13日夜)於城伏見小栗栖生涯55歳




明智光秀は何故信長を討ったか?2018

                           

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土橋重治宛明智光秀密書(美濃加茂市民ミュージアム 蔵)
 
※貴人とは足利義昭
  
明智光秀肖像画(本徳寺蔵)
 
     明智氏菩提寺(可児市天龍寺)
 
   明智城大手門跡(可児市)
 
明智城桔梗坂(可児市)
 
明智長山城跡(可児市)
 
明智長山城跡(可児市)
 
明智長山城址(可児市)
全国山城サミット2019可児大会11月9日(土)~10日(日)
会場:可児市文化創造センター(アーラ) 
 
可児市山城連絡協議会・可児市兼山674-1・tel&fax0574-50-8443・E-mail:yamajiro@ma.ctk.ne.jp

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