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現代科学で般若心経を分析(スマートフォン対応)
「宇宙と量子と般若心経」
智慧とこころの経『般若心経』は
宇宙・時間・空間・素粒子を説いている
文・丸山勝己
宇宙の成り立ち
大宇宙のほんの片隅の地球という小さな星に
生まれた私たち生命が何十億年もの歳月を掛け
て進化し、頭脳を持ち、自分たちを取り巻く宇宙が、
いったいどんな世界だろうと今,科学が必死になって
解き明かそうとしています。
今から、約137億年まえ森羅万象何もない、つまり、
ひかりやエネルギー、音や風、そして気配さえもなく、
どこまでも真っ暗闇(虚無)の中に1立方センチにも
満たない小さな黒い塊がありました。小さな塊は、
水の数千億倍の比重(地球上で最も重い金属は
22.57のオスミウムというレアメタル、
よく知られている金の比重は19.32)
その途轍もない小さな塊がそれ自
身の重力により一切の星や空間、そして
凡ゆる物質やエネルギー、ひかりさえも
吸収し小さな塊となっていたのです。
そして、或る剋その小さな塊(ブラックホール)
に「ゆらぎ」が生じ、臨界を超え突然爆発
(ビッグバンインフレーション)が起こりました。
爆発に依って、放出されたのは、
無量の小さなひかりとエネルギー
でした。
「無量」とは、釋尊が説かれた数
詞(右表)ですが、これはマクロ
の数詞のことであり、その単位は
10の68乗(1に0が68)である。
また、放出されたひかりとエネル
ギーのことを「清浄光」といいます。
清浄とは、やはり、ミクロの数詞(次表)
であり、そのひかりの粒子の半径の
大きさを10の-72乗(小数点以下0が72)センチ
のことである。これらの数詞を釈尊が説かれたの
は、三千世界(宇宙)を説くためである。
これらを自然科学では、宇宙論というが、釋尊は
ハッブル宇宙望遠鏡のような最新技術のない、
二千五百年前に、現代でも解明されていない宇宙論
を已に説かれていたのである。
究極の存在とは
今日の現代物理学に於ては、自然界の物質という
物質がすべて、原子と呼ばれる極小さな粒子(半径
10の―8乗センチ、即ち、1億分の1センチ、1忽セン
チ)で構成されている事は、誰でも知っている。
しかし、この原子が、究極の存在(物質)ではなく、
原子核という非常に固い芯の周りを、いくつかの電
子が取り巻いた構造であるという事も、発見され、
実証されている。
そして、その後の研究によって、どんな原子核も、究
極的物質ではなく、例えば、水素の原子核の場合も、
陽子と中性子(陽子とほぼ同じ質量を持ち、電気を
帯びていない中性の粒子)から、原子核が構成され
ている事が、すでに1918年英国の原子物理学者
アーネスト・ラザフォードに因り明らかになっている。
この陽子の基本的トライアングル構造を日本では昔
から聖徳太子の肖像画で顕している。太子の両脇
に子供がいる姿である。
三位一体とは |
また、この原子のトライアングル構造を釈迦如来の
脇侍に普賢・文殊の菩薩がそれであり、阿弥陀如来
の左の脇侍が観音菩薩であり、右の脇侍が勢至菩薩
であり、薬師如来には日光・月光がいる。因って、人の
右脳は情をつかさどり、左脳は知恵をつかさどります。
陽子や中性子は、固い粒子であり、すべての物質を
造っている最も基本的な粒子、即ち、究極的・極微の
粒子(それ以上、分割される事のない粒子)という
意味で『素粒子』と名づけられた。
例えば、半径10の―13乗センチの陽子の大きさを
、ビー玉ぐらいと譬えると、10の―8乗センチある原
子は、直径一キロの球ぐらいの大きさになり、我々
を構成している細胞は、地球ぐらいの巨大なものに
なり、我々の身の周りの物など、素粒子に比べると、
まさに宇宙の大きさに、匹敵するというのである。
それ程に、小さな存在である素粒子も、非常に小
さいとはいえ、10兆分の1という半径の大きさである。
そのごくごく小さい素粒子も、もう、それ以上分割す
る事ができない究極の物質であるかと言えば、そう
ではなく、まだもっと小さい粒子「クォーク」とか「レプ
トン」からできている複合粒子である事が分かった。
又、アインシュタインの特殊相対性理論によると、質
量とエネルギーは同じであるという。つまり、物質は
エネルギーに、エネルギーは物質に変換されるとい
う事である。
そこで、エネルギーの高い粒子を物質に当てると、
その時の衝突のエネルギーの一部は、質量に転換
され、新しい粒子が生まれるが、自然界を構成する
粒子のような安定性はなく、一瞬に崩壊して、他の
粒子に変化するのである。
だが、衝突する粒子どうしが、陽子と反陽子、あるい
は、電子と陽電子のように、物質と、その物質と全く
対称の反物質(プラスとマイナス)の場合、両者は
消滅し、真空中に莫大なエネルギーの塊が瞬間的
に出現し、そのエネルギーは一つの新しい素粒子な
どになり、再び、物質化することが、スイスのジュネー
ブにある欧州原子核研究機構(CERN)によって、現
在、実験研究が行われている。
2002年にわが国でノーベル物理学賞を受賞した小
柴昌俊氏で有名になった、岐阜県飛騨市の地下千
メートルにあるスーパーカミオカンデという地下観測
装置。5万トンの超純粋水の中を宇宙から飛来した、
ニュートリノが通過するときの僅かな光を、約1万1千
2百個の光電子倍増管という光センサーに因って、
世界で始めて、実際に捉えたというニュートリノの大
きさは10の-25乗センチということであった。清浄光
とニュートリノの大きさを比較すると、確認されたニュ
ートリノの大きさを太陽の大きさに譬えても清浄光は
ニュートリノより更に極小ということになる。また、こ
の常住不変の究極の存在である「清浄光」のことを、
已に釋尊が説かれているのである。『無量壽経巻上』
には、「清浄光」の性質から十二の名称が説かれて
いる。これは、十二種類のひかりがあるのではなく、
その清浄光というひかりの特徴を、十二に分けたも
のであるが、現代の量子論に通ずるものである。
①清浄光佛…貪りのない善根から生じたものでこの
光明で衆生の貪欲を打ち破る。(極微で素粒子の
間をすり抜ける)
②無量光佛…この光明から放たれる智慧は広大で
あって量り尽くす事はできない。(量が無いのでは
なく無限に存在する
③無辺光佛…この光明は大宇宙の隅から隅まで際
限なく照らす。(宇宙の隅々まで行き渡っている
④無礙光佛…この光明はあらゆる障害を受けるこ
とがない。(これ以上の小さいものは無いく全ての
物質を通り抜ける
⑤無対光佛…世にどれ程光があってもこの光明に
対比できるものはない。
⑥焰王光佛…地獄・餓鬼・畜生界の暗闇もこの光明
によって照らし破られ大利益を与える。(エネルギー)
⑦歓喜光佛…自然に腹立ちの心が無くなり佛道を
喜ぶ心が起き衆生の瞋恚を破る。(智慧の光)
⑧智慧光佛…信心の智慧を与える故にこの光明で
無明の闇を破る。
⑨不断光佛…昼夜を問わず休まず照らす。
⑩難思光佛…この光明がどれ程のものかを人間の
知恵で思っても、とても量り知ることはできない。
⑪無称光佛…この光明はどのような言葉でもってし
ても言い尽くすことはできない。
⑫超日月光佛…光明は熱地獄を清浄な光明で照ら
し寒地獄を温かい光明で照らす。
とある。これが、『清浄光』の十二の特徴である。故
に、佛法に篤い古のやんごとなき女性たちは、この
十二の光明に包まれ
たいと願い「十二単」を纏ったのであります。
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宇宙で初めて出来た元素は水素である。水素は字の如く水の素と書き水素から水が出来ている。水は生命の源であり私たちは海から生まれ身体の70%が水である。上記の「水からの伝言」を見て判るように少しでもいい水を飲んだほうがよい。人間は脳でものを考えるだけでなく、原始からの記憶は阿頼耶識という心の蔵に貯蔵され、心でも感じ身体中の水でも感じるのである。空を通じて胸騒ぎをし、また血も騒ぐのである。人間には水は命の源である。 |
宇宙の大きさ
ビッグバンによって四方八方に飛び散った、「ひか
り」であり「エネルギー」である『清浄光』のひとつひと
つは、思い思いの目的により縦横無尽に動きながら、
結果として秒速30万キロの速度で宇宙が拡がってい
るのである。宇宙の大きさはこのひかりでありエネル
ギーである「清浄光」の及ぶ範囲を云うのである。故
に、現在の宇宙は約137億年経っているとすれば、
1年の秒数とひかりの速度30万キロ/Sを掛ければ現
在の宇宙の大きさの半径が見出せることになるが、
9.1×10の78乗立方メートルが
現宇宙の大きさとなる。
釋尊が説かれた『観無量壽経』のなかに、佛を観る
方法として、定善十三観と云うのが説かれている。
その第九観に『佛の身の高さは、六十萬億、那由多、
恒河沙由旬』とあり、六十万億も那由多も恒河沙も
全て数詞(前数詞表参照)である。那由多は10の60
乗のことであり、恒河沙はインドのガンジス河流域に
ある砂の数のことで10の52乗のことである。一由旬
の距離は諸説あるが約千五百キロメートルとして
600,000×10の8乗×10の60乗×10の52乗
×1500km=9×10の128乗Km
という大きさが宇宙の最大膨張時の直径となるが、
佛教で言う一佛国となるのである。
宇宙は常に『真理』の方向、つまり、射手座の方角
に動いており、釋尊は、次の四つの工程を繰り返し
ていると説き、
①成劫=宇宙の成り立ちの一定膨張期
②住劫=宇宙のダークエネルギー(反重力)による
加速膨張期(1998年ニュー ヨークのワールドサ
イエンスフェスティバルに於て、アメリカのローレン
スバークレー国立研究所のサウルパールムッター
博士とオーストラリア国立大学のブライアンシュミッ
ト教授等による、宇宙の果ての超新星観測により
同時発表された現象)
③壊劫=宇宙の崩壊・超加速収縮期(ビッグクラン
チ、現代宇宙論でも未知)
④空劫=ブラックホールの暗黒期
と、四劫で成り立っていると説いている。
佛教で云う一つの佛の世界観は、「須弥山」の周囲に
四大州があり、そのまわりに九山八海がある。
上は色界の初禅天から下は大地の下の風輪に及ぶ、
その内容は日月・須弥山・四天下・四天王・三十三天
・夜摩天・兜率天・楽変化天・他化自在天・梵世天を
云う。
一小世界を千個合わせて一小千世界、それを千
個で中千世界、また千個で大千世界、大千世界を
三千世界又は三千大千世界という。これを一佛国と
みなす」ことが、世親菩薩の『倶舎論』・慧心憎都の
『往生要集』・親鸞聖人の『浄土和讃』などにある。
経に曰く
大釈迦所坐の蓮華台 周匝一千の華あり
毎華皆な一小釈迦を現じ
毎華百億の世界あり
毎世界 亦 一小釈迦あり
各菩提樹下に於て 同時に無上道を成すと
一釈迦これ百千億の釈迦
百千億の釈迦莞爾として
此の一釈迦を囲繞す
之れを心読し 色読して 心華開発し
一釈迦 又 此処に生ぜん
というのが、佛教の宇宙観である。
ビッグバンは五十五回目
多元宇宙論では、宇宙が次から次へと生まれ変
わることをインフレーション理論と仮説しているが『無
量壽経巻上』によれば、宇宙の起源は久遠劫の昔、
錠光如来が世に出興し、無量の衆生を教化し度脱
せしめたとある。その後、次々と如来が同じように
出興され、今のわれわれの棲む世界は、五十四番
目に、世自在王佛が創られた寿命四十二劫(約168
億年)の宇宙の次に、阿弥陀佛が、まだ法蔵菩薩の
とき、五劫(約20億年)の間、思惟された後に生成さ
れた、五十五番目の佛の世界であることが説かれて
いる。
また、地の蔵(地球)が創造されてから、已に十劫
(約40億年)を経ていることが説かれている。
『弥勒下生経』には、弥勒菩薩が現在、菩薩行を
行じており、五十六億七千万年の行の後に、次の宇
宙を生成するために下生するとある。ここでいう、「世
自在王佛」とか「阿彌陀佛」とは、『清浄光』のことで
ある。
佛教でいう、この宇宙が創造されたとは、キリスト
教やイスラム教のように、「全てが、神によって創造
された」と言うのとは、全く異なり、地・水・火・風という
四大が因縁となって四劫(成・住・壊・空)を繰り返し、
繰り返し、しながら創造されることである。
この宇宙の数百億年という動きのなかを一瞬も
止まることのない流れ自体を『法』というのである。
これを『真理』というのである。これが、宇宙の『真実』
なのである。われわれを含む森羅万象全てビッグバ
ンに因ってこの宇宙に放り出されたひかりの一つで
あったのである。
佛教では宇宙を五つの法で成り立っていると説い
ている。成劫は佛教の五色で言えば青であり、自然
で言えば明け方であり、季節で言えば春であり、小
宇宙である人体で言えば肝臓であり、「肝胆相照」
といって肝臓に通ずる胆嚢であり、胆嚢に通ずる
眼である。
これらは、ものの始まりを意味し、宇宙では若い星は
青色であり、自然界では東の夜明けの青であり、季
節で言えば春の青い新芽が眼に映える時期である。
東方の如来である薬師如来は瑠璃光を放ち我々人
間の肝臓を動かし無事に西方の黄色、つまり、黄金
の阿弥陀如来の許へ、無事にたどり着くように願い、
薬を持たせて送り出して頂いているのである。 故に、
若者や未熟者を、まだ青いと言い、青二才と言い、
また、青春というのである。
ものの成熟期は、住劫と云い赤である。超新星であ
る星の最後は赤くなり、やがて膨張して爆発するの
である。秋には、葉は紅葉し、実が赤く熟し実りを迎
えるのである。 始まりである妊婦は青く酸っぱいも
のを欲して、歳をとれば、還暦の初老は赤いちゃん
ちゃんこを着て、徐々に五味の中の甘いものを好む
ようになるのである。
これらは、宇宙の法則、つまり、釋尊が説かれた宇
宙の真理であり、五つの法から成り立っているので
ある。
五法(五臓、五佛、五色、五季、五方、五人種、五大陸…) |
四季でなく五季であり、四方でなく五方である。一年
の季節は春夏秋冬と各間に18日間の土用があり、
方向は東西南北の間に中道が加えられる。
「五体満足」とは、手足が揃って指などが五本揃って
いることではない。真理と一体となっている、五臓が
揃って確実に休むことなく機能していることを言うの
である。この肝臓を動かす役目をしている佛を東の
薬師如来と言い、肝臓は青く胆嚢に通じ、肝臓や胆
嚢を患えば青豆を食べると良いのである。南で心臓
を動かす役目は宝幢如来であり、心臓は赤く小腸に
通じ、心臓や小腸を患えば赤豆を食べれば良い。
西で脾臓を動かす役目は阿彌陀如来であり、脾臓
は黄色で胃に通じ、脾臓や胃を患えば黄豆を食べ
れば良い。北で肺臓を動かす役目は釋迦如来であり、
肺臓は白く大腸に通じ、肺臓や大腸を患えば白豆を
食べれば良い。中道で腎臓を動かす役目は大日如
来が担い、腎臓は黒く膀胱に通じ、腎臓や膀胱を患
えば黒豆を食べれば良いのである。これらを五智の
如来と言い、息によって空と結ばれているのである。
人間を荼毘に付した刻、最期に燃えるのは、この五
臓の五智の如来であり、五臓が五色の炎を放ちなが
ら、空に帰すのである。この五智の如来が人体の中
心に鎮座する故に「小宇宙」と云われる所以なので
あるということを、高野山真言密教の住職であった
筆者の父から、よく聞かされたことがある。
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多次元世界とは
ビッグバンを起因として拡がっている、『清浄光』
の世界は多次元の世界である。時間(現在・過去・
未来)は、佛教で云う無量壽(アミターユス)・空間
(極大・極小)は無量光(アミターバ)と云う、時空を
自由自在にテレポートできる密度の次元が異なる
世界である。量子の世界では過去も未来も不規則
で時間の逆行もあり、ワームホールも存在してい
ることが発見されているのである。
三次元の人間には、想像も及ばない多次元の世界
が、われわれと同じ空間に凛として共存しているの
である。『無一物中無尽蔵』の大小の「ひかり」だけ
の世界である。地球が出来る以前から「清浄光」は
存在しているのである。この宇宙を数学的に解釈す
るとしたならば、宇宙は『0』であり、『0』は、余りにも
偉大で摑みどころがない。その最初の『清浄光』の
1つが『一』で、『一即全』『全即一』ということであるが、
恰も、コンピューターの原理と同様である。世界的に
有名な数学者で知られる、岡潔先生によれば、『自
然数の一』は、証明ができないということを述べられ
ている。アインシュタインの「相対性理論」に依れば、
光の速度は秒速30万キロであり、その速度は「光速
度不変の原理」といって、それ以上の速度は存在し
ないと解いている。例えば、二台の電車が時速30キ
ロメートルですれちがった場合、すれちがいの速度
は60キロメートルとなるが、秒速30万キロメートルで
走る光同士がすれちがっても、すれちがいの速度は
30万キロメートルなのである。その分、時間の流れが
より遅くなるのである。お伽噺の「浦島太郎」はアイン
シュタインの相対性理論が生まれるずっと前からあ
る日本の昔話である。竜宮とは浄土のことで多次元
のひかりの世界のことである。ひかりの速度で移動
しているあいだは、時間が止まるのである。ひかりの
速度に近づけば近づくほど時間が遅く流れ、ひかり
の速度を超越したところでは時間が逆行するのであ
る。故に「清浄光」は、過去にも未来にも、最大にも
最小にも、時間・空間自由自在なのである。人間の
五十年は、ひかりの世界では、2.43秒だそうで、平
敦盛の詩である「人間五十年下天のうちにくらぶれば
夢幻の如くなり」である。天台宗横川の恵心僧都の
『往生要集』によれば「人間の五十年は四天王の一
日一夜」ということである。もちろん、われわれの現
象世界では、物質世界であり、この肉体がある限り
ひかりの速度で移動することは不可能である。どん
なに科学が進んでロケットができても質量がゼロに
近づかないことには、ひかりの速度に近づくことは不
可能である。もし、可能とするなら、光速度により、
重力が増大し、人間の質量及び物の質量が、SF映
画のようにミクロの大きさになるとしたら、可能かも
知れない。
故に釋尊は、『観無量壽経』の心身観文に
「作此觀 捨身他世 生諸佛前 得無生忍」
とあり、
「多次元世界を観ることができるものは、身(質量)
を捨てた他の次元に於いて、無量の佛の前に生じ、
苦しみ忍ぶことのないことを得る」とある。肉体を持っ
た儘では、多次元世界には行けないと仰せである。
では、苦しみのない世界とは何か、多次元世界とは
どのようなところであろうか。釋尊は「極楽浄土」と説
いている。極楽は何処にあるのか。同じ『観無量壽
経』に
「現在西方 去此十万億刹 其佛世界 名曰安楽」
とあり、
「現在此処を去ること十万億土西にあり、その佛の
世界の名を安楽世界という」
とあるが、これは、釋尊一流の方便である。古歌に
極楽は西にはあれど 東にも
きた(北)みちさがせ 皆身(南)にぞある
とあり、『清浄光』はビッグバン以来この宇宙に遍満
しており、われわれと同じ空間に存在しているのであ
る。しかし、近くて遠いのが清浄の世界であり多次
元の世界である。たった一つの煩悩で『清浄光』にな
れなかったのが『太陽』である。『太陽』は、水素とい
う煩悩を約百億年という期間を燃やし続け、地上に
平等に「太陽としての光とエネルギー(慈悲)」を降り
灌ぐという精進を行っている。仏教では、太陽を「観
音菩薩の化身」という。次には、必ず佛と成る身であ
る。それでは、極楽つまり多次元世界はどのような
様子であろうか。『仏説阿彌陀経』にその様子があり
ます。
『又舎利弗 極楽国土 七重欄楯 七重羅網
七重行樹 皆是四宝 周帀囲繞 是故 彼国名曰
極楽』
釋尊が、弟子の舎利弗に言うには、極楽とは七重
(密度の度合いの表現)の装飾を施した垣があり、
七重の宝珠を連ねた飾り網があり、七重の並木が
連なっており、金・銀・瑠璃・玻瓈の宝石の輝きが、
遍く廻り囲んでいる。(微風が吹くと、欄楯 羅網
行樹にある宝石が微妙の音楽を奏でる)
このような阿彌陀の国を極楽と云う。
『又舎利弗 極楽国土 有七宝池 八功徳水
充満其中 池底純以 金沙布地 四辺階道
金・銀・瑠璃・玻瓈合成 上有楼閣 亦以金・
銀・瑠璃・玻瓈・硨磲・赤珠・碼碯 而厳飾之
池中蓮華 大如車輪 青色青光 黄色黄光
赤色赤光 白色白光 微玅香潔 舎利弗
極楽国土 成就如是 功徳荘厳』
「また、舎利弗よ。多次元世界は金・銀・瑠璃・玻瓈
・硨磲・珊瑚・瑪瑙の七珍の池があり、池の水は八
つの功徳(不老不死)を含んだ水で満たされ、池の
底には砂金を敷き詰めたように黄金に煌き、四辺
の街道は金・銀・瑠璃・玻瓈の宝石の耀きと溶け
合っている。上方に楼閣があり、金・銀・瑠璃・玻瓈・
硨磲・赤珠・碼碯の宝石の煌きで荘厳されており、
池の中には蓮華が咲き、大きな車輪のようなひかり
がある。青色のものには青い光が輝き、黄色のもの
には黄色の光が輝き、赤色のものには赤い光が輝
き、白色のものには白い光が輝き、程よい高潔な香
りが漂っている。舎利弗よ、多次元世界はこのよう
な色々な光の煌きと微妙な音楽と高潔な香りで満ち
満ちたところである」と説かれている。つまり、極楽世
界とは眩いばかりの光の世界で七次元の量子の世
界のことである。
三次元世界
それでは、われわれ三次元の世界はどのような
経過を経たのか。ビッグバンに因って飛び出した「無
量の清浄光」の一部は、その性質(陰陽)のため、ミ
クロの世界でそれぞれ引き合ったり、反発しあったり
しながら、やがて密になるところができ、悠久の時を
経て、星雲ができたのである。それが、更に進み自
ら光を放つ恒星ができたのであり、太陽も恒星のひ
とつであるが、その主成分は水素から出来ている。
水素は原子であり、宇宙に最初にできた元素で、原
子番号は1であり、一番軽い元素である。その水素
が核融合反応に因ってヘリウムができ、ヘリウムが
リチウムを造り……、全ての元素ができたのである。
この宇宙のなかに自然にできた百八(人工的に作ら
れた原子を除く)の元素があり、自然界の森羅万象、
全てこの百八の元素の組み合わせ(因縁仮和合)に
依って生成されているのであり、釋尊は、この百八の
元素を「煩悩」と呼んでいる。清浄光に纏わり付く不純
物なのである。清浄なものを覆い隠す「煩悩」なので
ある。この「煩悩自体」がわれわれのいる三次元世界
であり、煩悩渦巻く暗い世界なのである。肉体つまり
物質をもった世界、仏教で云う色の世界であり、仮の
世界であり、密度が薄く真実ではない世界であり、直ぐ
に変化する夢幻泡影・電光朝露の儚い世界なのであ
る。
故に、釋尊はこの世界を『苦の世界』だと仰せであ
る。何故なら『阿含経』に
「諸行無常 諸法無我 一切階苦」
とある。
諸行無常とは何か。
釋尊は「あるがままにものを見よ」と言われたが、あ
るがままに自然界を眺め、人間界や自分を見た時
「すべてのものは移り変わる」
ことは、厳然たる事実である。
水が暫しも止まることがなく流れるように、一瞬一瞬、
生滅変化するように、人が一生の間に生・住・異・滅
して移り変わるように、この三次元宇宙に存在する
もの、全て、移り変わるということである。また、すべ
てのものは
「因縁仮和合」
つまり「因」と「縁」とによって仮に和合しているだけで
あるという。
「因」と「縁」とによって、また、分離し、見えなくなるの
である。故に、すべて『空』なのである。
諸法無我とは、佛教では、「身心一体」といい、精神
と肉体という二元論の立場をとらない。釋尊は、「我、
即ち、霊魂という実体は、認められない。存在は
縁起によって起こるものである」と説かれ、要するに、
美しいものを見れば、美しいと感じ、良い香りを嗅げ
ば、良い香りだと感じ、美しい音色を聴けば、心が
和み、美味しいものを食べれば、美味しいと喜び、
良い感触の物に触れれば、やはり、気持が良いと思
う。我々の心は、見た物を、見たまま、聞いたものは、
聞いたままに、嗅いだものは嗅いだまま、味わったも
のは、味わったままに、触ったものは触ったままに感
じるというのは、心に、常住不変な実体がなく、「空」
だからである。
故に、こころは、実体がないから、われわれは悪に
囚われず、積極的に善を行い、「かぐや姫」のように、
もとの『ひかりの世界』へ帰らねばならぬ身である。
仮の世界ではない、永遠に変わらぬ『真実真如の
世界』へ帰らねばならぬ存在なのである。これが、
人間として生まれてきた目的である。悪しきを行い、
いつまでも六道界を輪廻しているわけにはいかない
のである。
釋尊は、『華厳経』に
「奇なる哉 奇なる哉 一切衆生
悉く佛の智慧徳相を具有す」
とあり、『涅槃経』には
「一切衆生 悉有佛性」
とあるが、この、佛の智慧徳相とか、佛性とは『清浄
光』のことであるが、両経典共、「煩悩蔽うが故に覚
ることはできない」と結論している。
この宇宙の森羅万象全て起因は、清浄光なのであ
る。その清浄光と一体となる魂つまり、こころの作用
に縁って色々な元素が付着し、清浄光を覆ってしま
うのである。蝉の抜け殻の如く死に因って次から次
へと衣替えするのが輪廻転生である。こころの汚れ
が肉体なのである。われわれ三次元世界の生きも
のは顚倒といって全てさかさまであり、身心のうち肉
体のほうに囚われてしまうのである。その肉体があ
ることによって苦しみが生じるのであり、生まれた
ばかりの赤子でも、日が立つに連れ、母乳がもっと
欲しい、もっと欲しい、と欲を増すのも肉体があるか
らである。
生まれ児が 次第次第に 知恵つきて
ほとけに 遠くなるぞ 悲しき
と、法然上人も歌っています。
人間も豚も四つの塩基(DNA)の配列は、殆ど酷似
していて、人間に生まれるか豚に生まれるかは僅差
なのである。
輪廻転生
では、『輪廻転生』とは本当にあるのだろうか。