玉葉抜書 九條関白兼実著

         嘉承二年(1183)五月~嘉承三年(1184)二月

         玉葉の義仲名が見出された月日のみを抜書

        「玉葉のなかの義仲」

             現代仮名遣い文

            

  九条兼実像『天子摂関御影』より

 

 

(監  修)   木曽古文書歴史館長

           木曽義仲33代     木 曽 義 明

         (解  説) 木曾義仲をNHK大河ドラマに誘致する会事務局長

           特定非営利活動法人ザ義仲理事長  丸 山 勝 己






































































(以仁王令旨)

 最勝王の勅を奉るにいはく、清盛法師ならび宗盛ら、威勢をもって凶徒を起こし、
国家を亡ぼし、百官万民を悩乱し、五畿七道を虜掠す。
皇院を幽閉し、公臣を流罪し、命を断ち、身を流し、淵に沈め、楼に込め、財を盗
み、国を領し、官を奪い、職を授け、功無きに賞を許し、罪にあらざるに咎に配す。
あるいは諸寺の高僧を召しとり、修学の僧徒を禁獄し、あるいは叡岳の絹米を給
下し、謀叛の粮食に相具す。
百王の跡を断ち、一人の
(こうべ)を切り、帝皇に違逆し、佛法を破滅すること、古
代に絶するものなり。
時に天地ことごとく悲しみ、臣民皆愁ふ。
よって吾は一院の第二皇子として、天武皇帝の旧儀を尋ねて、王位をおし取るの
輩を追討し、上宮太子の古跡を
(とむら)ひて、佛法破滅の類を打ち亡ぼさんとす。
ただに人力の構へを憑むのみにあらず、ひとへに天道のたすけを仰ぐところなり。
これによって、もし帝王・三宝・神明の冥感あれば、なんぞたちまちに四岳合力の
志なからんや。
しかればすなはち、源家の人、藤氏の人、兼ねては三道諸国の間、勇士に耐へた
るものは、同じく与力して追討せしめよ。
もし同心せざるにおいては、清盛法師が徒類になぞらへ、死流
追禁(ついきん)の罪過
に行ふべし。
もし勝功ある者においては、まず諸国の使節に預らしめ、御即位の後、必ず乞ふに
従ひて勧賞を賜ふべきなり。諸国よろしく承知し、宣に依ってこれを行ふべし。

 治承四年四月九日  前伊豆守正五位下
(仲綱)(・頼政)(嫡子)


         『全訳吾妻鏡』巻1の治承四年四月廿七日条より




「平家にあらずんば 人にあらず」
 世は、当にそういう時代であった。
 仁安二年(1167)武士と して初め太政大臣に昇り詰めた治承三年(1179)後白河
法皇を幽閉し院生を中止、権力を掌握し平清盛は、この年、平家一門の知行を全
国の過半数を超えるまでに急増させ、翌治承四年(1180)二月、法皇娘婿であった
高倉天皇に譲位を迫り、孫の安徳帝を即位させることにも成功した。
後白河法皇の皇子の一人以仁王(二条天皇の弟皇・高倉天皇兄皇)は憤慨した。
「新帝はわずか三歳(以仁王の甥)。平清盛の傀儡ではないか!」
と、源氏唯一の公卿源三位頼政(義仲兄)と図り、同年四月に諸国の源氏に平家
打倒の挙兵を呼びかけた。
 いわゆる前述の「以仁王の令旨」である。
紀伊熊野では、為義の十男・行家(ゆきいえ。義盛)が以仁王の令旨を伝えに東国
へ走った。
『平家物語』には、挙兵を呼びかける諸国の源氏の名が列挙されている。

 
常陸では、為義の子・源(志田)義広が挙兵した。
 伊豆では、義朝の三男・頼朝が挙兵した。
 義朝の遺児・範頼、義円、義経らも立ち上がった。
 甲斐では、武田信義、安田義定らが挙兵した。
 美濃・尾張では、木田重長・浦野重遠らが立ち上がった。
 近江では、山本義経、柏木義兼らも挙兵した。
 河内では、石川義基、源義兼らが立ち上がった。
 東大寺・興福寺も源氏になびいた。
 延暦寺・園城寺も源氏に味方した。

 そして信濃では、木曽義仲が挙兵したのである。
 治承四年(1180)九月のことであった。







「玉葉」




巻第三十六
治承五年(1181)秋(七月四日改元、養和元年となすなり)。辛丑歳。

七月大

一日(きのと)亥。晴か曇りか、はっきり定まらず。
午後の二時、右中弁の藤原兼光朝臣(
氏院別当)長者(藤原家長者基通)の使が来て
云うには「御寺
(みほとけ)を始められる間、少々の疑問あります。金堂の御佛、公
家の御指示となし、事の子細をお聞きし、閣下にご相談し、ご指示を頂くべきこと、
白川院の御気色
(おんけしき)ご意向)もあれば、先ず何れの所に於て始められるべき
でしょうか。
康平(こうへい)1058年大極殿火災の為天喜6年に改元~1064)寺中の東室に於て
始められるとのことですが、ご意見は如何でしょうか」と云々。これ寺家の申す所
なり。今度寺中悉く灰燼となりましたが。然れば、金堂前の壇下あたりに於て、始
め奉るべきでしょうか。将に必ず南都(
奈良)に於て始めてはいけないでしょうか
(是一)。次に
(みそぎ仏像を彫る為 の木)、何処の木を採るべきでしょうか。康平の
例、前例がありません。事の理を憶うに、寺領の杣木
(そま)を採るに如何致しましょ
う(是ニ)。次に御衣木の加持僧、東寺の
僧綱(そうごう)を用いられるべでしょうか。そ
の役は誰がよいでしょうか。東大寺別当の(
藤原)禎喜僧正がふさわしいでしょうか
(是三)。余答えて云わく、御佛を始められる所の事、康平の例で明らかである。
南都で問題無いだろう。寺内灰燼となると雖も、金堂の燈下の辺、平張を打ち遂げ
行われるに、何の妨げがあろうか(兼光云わく、白川諸御願寺の御佛、法勝寺の
金堂の壇下に於て始められる例があります。尤も准拠すべきかと云々)。兼光重
ねて問いて云うには、若しそうであるならば、講堂、南円堂等、長者の沙汰となし、
件の御佛、
(おのおの)本堂路に於て始められるべきか。将に金堂の壇下に於て、一
度に始められるべきか。答えて云わく、一所に於て始められる、事の妨げ無くば、
何事かこれあらんや。所々の義、煩いあるに似たるか。何ぞ必ず本堂跡に限らん
や。但し
便(びん)に従われるべきか。又兼光問いて云わく、新造せられるべき御佛
等、その数八十余体(金堂
(ばか)りなり)、悉く同時に始めるべきか。将に宗たる
御佛を始め奉り、小佛等に於ては、後日造り奉るべきか。康平の例、只十五体を
始め奉る由、記文あり云々といえり。余答えて云わく、先ず規存する事に於ては、
一向にその跡を守られるべし。他議に及ぶてはいけないか。次に御衣木の事、同
じく前例あれば、その趣に随われるべし。所見無ければ、寺領の杣木を採られる、
便あり難無きか。次に加持僧の事、禎喜僧正、専らその仁に当たれり。彼、若し障
りある時は、沙汰に及ぶべきかといえり。この次、兼光相語りて云わく、越後国の勇
士(
城太郎助永弟助職(すけもと)、国人白川御館(おやかた)と号すと云々)、信濃国を追討せんとす(故
禅門の平清盛の子幕下平宗盛等の命に依るなり)。

六月(横田)十三四両(ヶ原の合戦)日、信濃国の中に入ると雖も、敢えて相防ぐ者無し。
殆ど降服を請う輩多し。僅に城等に引き籠る者に於ては、攻め落すに煩い無かる
べし。仍て各勝に乗ずる思いをなす。猶、散在の城等を襲い攻めんとする間、

信乃
(信濃)
源氏等、三手に分れ(木曾党(義仲軍)一手、佐久党(根井行)(親軍)手、甲斐国
武田(安田)()(定軍)一手)、(にわか)に時を作り攻め襲う間、山のけわしさに疲
れたる
旅軍(平家軍)等、一矢を射るに及ばず、散々に敗れ乱れ終んぬ。大将軍助
職、二、三ケ所疵を被り、甲冑を脱ぎ、
弓箭(きゅうせん)を棄て、僅に三百余人を相率
い(元の勢、万餘騎と云々)、本国に逃げ脱し終んぬ。残り九千余人、或は伐ち取
られ、或は
嶮岨(けんそ)より落ち命を終へ、或は山林に交り姿をかくす。凡そ再び戦う
べき力無しと云々。そうこうしている間、本国在庁の宮人已下、かねてからの恨み
を遂げんため、助職を踏みつけようとして、藍津の城に引き籠る処、
秀平(藤原秀衡)
郎従を遣わし、押領せんとする。仍て佐渡国に逃げ去り終んぬ。その時相伴う所、
(わずか)に四五十人と云々。この事、前治部卿藤原光隆卿(越後国を知行する人な
り)、今日
(たし)かなる説と称し、院に於て相語る所なりと云々。

後に聞く、佐渡国に逃げ脱する、謬説なり。本城に引き籠ると云々。今日余の長男
良通大将
白地(あからさま)に来たる。聊か疲れ気味により帰り参り終んぬ。


「玉葉」巻第三十八

壽永二年(1183)

五月十六日(つちのと)()
去る十一日 平氏の官軍前鋒勝に乗り
越中(富山県)国に入る。木曾冠者義仲、十郎
蔵人(くろうど)源行家、及び他の源氏等、倶利伽羅峠にて迎へ戦い、官軍敗績し、過半
数が討死との
云々(うんぬん)。今夜(皆既月蝕(げっしょく)にて内裏(だいり)に於て御読經(どきょう)
を行われる。(しょう)(けい)中納言實家卿と云々。

壽永二年七月大

壽永二年(1183) 

七月大

二十七日(つちのと)(うし)。天晴。
風邪發動に依り、今朝
御所に参らず。従三位中将定能卿來たり、又、白川院の近習
定長が御使者となり來たりて
うには、前内大臣従一位平宗盛已下(いか)追討の事、
内々(ないない)(おお)せ下さると(いえど)も、(なお)證文(しょうもん)を給うべき。
(しこう)して宣旨(せんじ)【天皇⇒内侍⇒蔵人⇒太政官(上卿)⇒少納言(辧官)⇒外記(大史)】か
(検非違使庁)の御下文如何(いかん)と()()わく、人主(安徳帝)(すで)
(平氏)に伴う。宣旨の條(すで)謀書(ぼうしょ)か。()の御下文(よろ)しかるべし。
定長又云わく、
()しは法皇の詔書(詔勅)と爲すべきか。
余云わく、この事大事たりと雖も、攝政藤原基通の
(みことのり)を下さるに()ざるか。
(ただ)廳の御下文宜しかるべし。余問いて云わく、劔璽(けんじ)(三種の神器)の沙汰(さた)
如何
(いかん)

定長
(のたま)わく、主上(安徳帝)劔璽共に御(かえり)あるべき由、定長御教書(おしえしょ)を書き、
主典代(さかんだい)景宗(かげむね)相具(あいともな)い、平時忠大納言の許に(つか)わすべし。
余日わく、この事
(はなは)だ希な沙汰か。(たと)い御教書を(つか)はすと雖も、御使(つかい)
ては
()められるべし。召使(めしつかい)二、三人の如き差し遣わすべきか。
(およ)そこの劔璽の事、別の思いもよらぬ(はかりごと)を以てかの縁邊(えんぺん)の人を(たず)ね、
(さそい)(かた)せられるべきか。私事あるに似たりと雖も、安穏(あんのん)に出來る事、
甚だあり難き故なり。
余又云わく、今に於ては、木曽義仲、源十郎行家等、
士卒(しそつ)狼藉(ろうぜき)を停止し、
早く
入京(にゅうきょう)すべきか。その後、早速安徳天皇還御あるべし。
(しか)
らざれば、京都の濫吹(らんすい)【笙の吹けない者が楽中に入ってごまかしていたが、
一人ずつ吹くことになったという中国の故事】
()えて止むべからず。
これらの
(おもむき)を早く天子に奏上すべし。定長帰り終んぬ。
(ひつじ)
の刻(午後四時)、左近衛中将定能卿告げて云わく、連々日、次無きに依り、
今日
(にわか)に法皇還御(明日復日(ふくにち)、明後日御衰日(すいにち)晦日(つごもり)に至る際、
甚だ
懈怠(けたい)<怠けおこたること>すべき故なり)、(すなわ)て御(でまし)す。
余、
御幸(ぎょこう)の後、同じく以て山を()で、(いぬ)の刻(午後八時)、法性寺(京都東山座主慈円)に(いた)る。
帰忌日
(きこび)
(帰宅を忌む日)たるに依り僧房(そうぼう)宿(しゅく)す。
法皇同じく帰忌日に依り、蓮花王院(三十三間堂内)に還御すと
云々(うんぬん)
今度根本中堂に参るべきこと、
相存(あいぞん)ずる處、日次(にちじ)宜しからざる上、
(こと)卒爾(にわか)の間、(むな)しく以て叡山より京へ下洛(げらく)す。
所願成就
(しょがんじょうじゅ)
の時、この(うら)みを(さん)ずるべきこと、中心(ちゅうしん)より祈願(きがん)(おわ)んぬ。


二十八日(かのえ)(とら)。天晴。
今日義仲行家等、南北より(義仲北、行家南)
入京(にゅうきょう)すると云々。
晩、
頭左少辧(とうさしょうべん)藤原光長()たり語りて云わく、
義仲行家等を蓮花王院の御所に召し、平家追討の宣旨を仰せ遣わされる。
大理殿
(あがり)(えん)に於てこれを受けさせる。
かの
両人(義仲・行家)地に(ひざまず)きこれを(うけたまわ)る。
御所
(ごしょ)
たるに依りてなり。
参入
(さんにゅう)
()、かの両人相並び、敢えて前後せず。
争權
(そうけん)
意趣(いしゅ)これを以て知るべし。
両人退出の
(あいだ)頭辧(とうべん)兼光、京中の狼藉停止すべきことを受けると云々。
今朝
(けさ)
、左近衛定能卿來たる。法印(慈円)昨日京に(くだ)る。

三十日(みずのえ)(たつ)。天晴。
早朝、院の司従三位泰經卿書を源
季長(すえなが)朝臣
の許(もと)に送りて(のたま)わく、今日院に於て大事を議定(ぎてい)せられるべし。
()の刻(正午)参上するべしといえり。
午の一
(てん(かんむり)直衣(のうし)を着け、蓮花王院に参る。
これより先、左大臣藤原經宗、正二位大納言藤原實房、
          直衣(狩衣)           堀川中納言藤原忠親、中納言藤原長方等、
御堂(みどう)
南廊東面座(風吹くに依り
(みす)を垂れる)にあり。
余、同じくかの
座頭(ざとう)に加わる。
辧藤原兼光朝臣
(おお)せを奉り來たり、左大臣に(おお)せ云わく、條々の事(はか)らい申すべし
といえり(その事三ケ條
(つぶ)さに左に()す)。               

一、平氏追討の勧賞の件仰せて云わく、今度の義兵(ぎへい)造意(ぞうい)頼朝にありと雖も、
当時成功の事、義仲・行家なり。
()(しょう)を行わんとすれば、頼朝の(うつ)(はか)り難し。
かれの
上洛(じょうらく)を待たんとすれば、又両人(義仲・行家)賞の(おそ)きを(うれ)うるか。両ケの間、叡慮(法皇の御心)決し難し。兼ねて又三人の勧賞(かんしょう)等差あるべきか。その(かん)の子細(はか)らい申すべしといえり。

人々申して云わく、頼朝の京への参洛(さんらく)の期を待たれるべからず。
彼の賞を加え、三人同時に行われるべし。
頼朝の賞、若し
雅意(わがまま)(そむ)かば、申請に随い改易(かいえき)する、(なん)(なん)かあらんや。
その等級に於ては、且つは君主に尽くす
勲功(くんこう)の優劣に依り、且つは本來の官職の高下(こうげ)に随い、(はか)らい行われるべきか。(そう)じてこれを諭ずれば、第一頼朝、第二義仲、第三行家なり。

 頼朝(京官(きょうかん)任国(にんごく)加級(かきゅう)左大臣(藤經宗)云わく、京官に於ては、参洛の時任ずべし。余云わく、そのようなことをしてはいけない。同時任ずべし。長方(押小路中納言)これに同ず)

 義仲(任国、叙爵(じょしゃく)

 行家(任国、叙爵、但し国の勝劣(しょうれつ)を以てこれを任ず。尊卑(そんぴ)差別すべしと云々。實房(大納言皇后大夫)卿云わく、義仲従上(じゅうじょう)、行家従下(じゅうげ)宜しきか)

一、京中の狼藉の件仰せて云わく、京中の狼籍、士卒巨萬の致す所なり。(おのおの)その勢を減ずべきこと、仰せ下さる處、不慮の難、恐る所無きにあらず。これを爲すに如何。兼ねて又(たと)い人數を(げん)ぜられると雖も、兵粮(ひょうろう)無くば、狼藉絶ゆるべからず。その用途又如何。同じく計らい(もう)せしむべしといえり。

人々申して云わく、今に於ては、徒党の恐れ、定めて(むれ)を爲すに及ばざるか。士卒の人數を減ぜられる、上計(じょうけい)()うへし。
兵粮の事、
(すこぶ)る異議あり。堀川中納言忠親、中納言藤原長方等云わく、各一ケ国を(たま)い、その兵糧に(あて)つべし。
余、
(なん)じて(のたま)わく、勧賞(けんじょう)任国の外、更に国を賜う條如何。
両人云わく、その用
(おえ)らば他人に任ぜられる、何の難あらん。余日わく、(ことわり)然るべし。
但しかれら定めて領地の
収公(しゅうこう)の恨みを含むか。
只朝廷の
没官地(ぼつかんち)の中、適切な所を(えら)び、()て給うべきか。然らずば、又一ケ国を以て両人に分ち賜うべきか。
但しこの條頗る喧嘩の基たるか。猶
没官(もっかん)の所を賜う、宜しかるべし。
左大臣藤原經宗云わく、両方の議
(おのおの)然るべし。
天皇の
勅定(ちょくじょう)にあるべし((すこぶ)る余の議に同ぜられるか)。

一、関東北陸の荘園へ使者派遣の件仰せて日わく、神社佛寺及び甲乙の所領、多く関東北陸にあり。今に於ては、各その使(つかい)を遣わし沙汰を致すべきこと、領主の本所(ほんじょ)に仰せられるべきか。

一同申して云わく、異議あるべからず。早く仰せられるべしといえり。

左中弁兼光人々の申状を聞き御所(ごしょ)に参り終んぬ。
その後、數刻を經たり。この間、余、左府經宗に問いて云わく、若し勧賞を行われば、
除目(じもく)(清涼殿で行なう主典以上の官位を任ずる儀式)の儀如何。左府(左大臣)日わく、この事難題なり。
一昨日議定の時問わると雖も、
除目(じもく)あるべきや否や、その間の儀に於ては、未だその沙汰に及ばず。
但し所存は、院の殿上に於て、下名を行わるべしといえり。
春秋の除目の如くは、官の外記の
(ちょう)に於て下されるべし。
余日わく、
()に於て下名を下されるべくは、只陣に於て除目を行われるべきか。
(およ)
宣旨(せんじ)官符を以て施行さる事等、皆廳の御下文に改められ終んぬ。
これ即ち院の御沙汰たり。
宣旨をなし官符を少納言が奏上し太政官の
請印(しょういん)する條、しなければならない故なり。
何ぞ
下名(かめい)に至りその議を破るべきや。
()
べて院の殿上の除目(じもく)、甚だ甘心(かんしん)せず。左府云わく、この事本より希代の權利と議事なり。
然れども他の
(はかりごと)無きに依りこの儀を存ず。
余云わく、
勧賞(けんじょう)に於ては、只内々にその人に仰せ、(新しい)()践祚(せんそ)の時、除目(じもく)に載せられるべきか。
左府云わく、諸国多く以て
(あやまち)あり。
(しか)しながら口宜(こうせん)の條穏便ならず。
余云わく、他の任命に於ては、蹔く相待たるべきか。
中納言藤原長方卿云わく、
(そもそも)主上の還御を相待たる條(もっと)も以て不定、立王の事、何時を以て期すべきや。
余云わく、事の肝心只ここにあり。左府云わく、天皇から勅問に就き評定すべきなり。
この條尋問せられず。
進み申す條、便無かるべきか。
かくの如き議定の間、左中弁兼光帰り來たりて云わく、
勧賞(けんじょう)除目(じもく)その儀、如何。
宜しく計らい申さしむべしといえり。
堀川中納言忠親卿云わく、
准拠(じゅんきょ)の例、外記に問われるべきか。
左府善しと称す。
即ち兼光を以てこれを問う。
帰り來たり申して云わく、大外記頼業、師尚等申して云わく、諸社への天皇の
行幸(ぎょうこう)御幸(ごこう)等の賞の如く、先ずその人に仰せられ、後日除目(じもく)に載せられるが宜しきか。
嘉承(1106~08)に攝政の(みことのり)、先帝崩御、新主未だおはしまさず、法皇の(みことのり)を以て仗下(じょうか)に於て下され終んぬ。
然れば新儀を以て殿上に於て行われる、又御
(さだめ)にあるべし。
但し初の議、穏便か。
且つこれ時中参議を任ずる例なり(圓融院、大井川逍遙、舞の賞に依り、参議を任ずる由を仰せられる。
後日
除目(じもく)に載せられる。
この事小野宮記(藤原實資日記)に見ゆ。
かの記の意、上皇の宜を以て参議を任ぜられる條、甚だこれを難ず)。
人々皆この儀を以て是と爲す。
左府又
(こだわり)を破りこれに同ず。
左中弁兼光帰り参り終んぬ。
即ち出で來たりて云わく、
(おのおの)議奏(ぎそう)の趣、皆以て然るべし。
早くこの定に行わるべしといえり。
今に於ては各御退出あるべしといえり。
余即ち退出し終んぬ。
攝政藤原基通今日京に下ると云々。
數日山上にあり。
人以て奇と爲すか。
今日法印慈圓來られる。
日來の如く
西家(にしや)に居住する。
今日より僧一人を吉田社(左京区吉田神社)に
()め、七ケ日の間仁王講(にんのう会)を修せしむ。
幣帛(へいはく)を奉る。


壽永二年(1183)

八月

九日(かのと)丑。
今日、百度の祓いを修す。
伝へ聞く、去る六日
解官(平家一門)二百余人ありと云々。
左衛門督中納言平時忠卿その中に入らず。
これ安徳帝の還御あるべきことを申さる故なりと云々。
朝務の尫弱、これを以て察すべし。
(あわれ)むべし憐むべし。

十一日(みずのと)()。雨下る。
先日
(すすめ)られる所の太神宮(伊勢大神宮)の(つるぎ)(はこ)等、今日参着の日なり。
仍て
神斎(しんさい)(はら)いを修し遙拝(ようはい)す(衣冠)。
去夜の
聞書(ききがき)を見る。
義仲は従五位下、
左馬頭(さまのかみ)越後守(えちごのかみ)、行家は従五位下、備後守(びんごのかみ)と云々。

十二日(きのえ)辰。雨下る。
伝へ聞く、行家
厚賞(こうしょう)にあらずと称し忿怒(ふんぬ)、且つこれ義仲の賞と懸隔(けんがく)の故なり。
門を閉じ辞退すると云々。
一昨日夜、左衛門督中納言平時忠卿の許に遣わされる御教書、返札到來す。
その状に云わく、京中
落居(らっきょ)の後、劔璽已下の宝物(ほうもつ)還幸(かんこう)あるべき事、前内府平宗盛に仰せられるべきかと云々。
事の
(てい)頗る嘲哢(ちょうろう)の気あるに似たり。
又、貞能(平氏重臣)の請文に云わく、よき様に計らい沙汰すべしと云々。
当時
備前(岡山東)(南部)小島にあり。
船百余
(そう)と云々。
或説に云わく、鎮西の諸国に
宰吏(さいり)を補すと云々。
大略、天下の
(てい)、三国史の如きか。
西に平氏、東に頼朝、中国已に劔璽無し。
政道偏に
暴處(ぼうしょ)尫弱(おうじゃく)となり。
甚だその
(たの)み無きに似たるか。
賊の征伐遅引、院中の
諸人(もろびと)、心を闕国(けっこく)及び庄園等に懸け、君又この欲に貪着す。
上下
逢境(ほうきょう)歓喜(かんぎ)(ほか)無し。
天下の
亡弊(ぼうへい)を知らず、国家の傾危(けいき)を顧みず、嬰児(みどりご)の如く、禽獣(きんじゅう)の如し。
悲しむべし悲しむべし。今夜、方
(たが)へのため良通大将宅に向う。


十四日
(ひのえ)午。
夜に入り大蔵卿高階泰經(白川院近臣)御使となり來たる(これより先、召しあり。

(しつ)
いに依りそのことを申す。
仍て來たる所なり)。
余、興を隔ててこれに謁見する。泰經云わく、
践祚(せんそ)の事、高倉院(高倉天皇)の宮二人
(一人は平義範の女(少将の局範子)の
腹五歳(惟明親王)(吹)、
一人は藤原信隆卿の女(七條院)の
腹四歳(後鳥羽))の間、思し食し煩う處、以ての外の大事出で來たり終んぬ。
義仲今日申して云わく、故
三條宮(以仁王)御息(北陸宮)北陸にあり。
義兵の勲功
かの宮(以仁王)の御力にあり。
仍て立王の事に於ては、異議ありそうすべきではない由と云々。
仍て重ねて延暦寺東塔五智院俊堯僧正を以て(義仲と
親眤(しんじつ)たる故)、
子細を仰せられて云わく、わが朝の習い、君主の継體守文を以て武より先と爲す。
高倉院の宮両人おはしまし、その
王胤(おういん)を置きながら、
(あなが)
ちに孫王を求められる條、神慮(しんりょ)測り難し。
この條猶しなければならないかと云々。
義仲重ねて申して云わく、かくの如き大事に於ては、源氏等
(とらわれ)申すに及ばずと雖も、
(ほぼ)事の(ことわり)を案ずるに、法皇御隠居の(とき)、高倉院權力の臣を恐れ、成敗(せいはい)無きが如し。
三條宮
至孝(しこう)に依りその身を(ほろぼ)す。(いか)でかその孝を思し食し忘れざらんや。猶この事その(うつ)を散じ難し。
但しこの上の事は天皇の勅定にあり云々といえり。
この事如何計らい
(もう)すべしといえり。
申して云わく、他の朝議に於ては、事の許否を顧みず、
諮詢(しじゅん)ある毎に愚疑(ぐぎ)を述べたり。
王者の沙汰に至りては、臣下の最にあらず。
法皇(後白河)()の始め、近衛上皇御事の後、誰を以て主と爲すべきやの由、
鳥羽院この法性寺(藤原忠通)入
道相国(清盛)に問い仰せられる。
即ち
(そう)するにわが君の御事(現帝の御意志)を以てする。
かれの
(ことば)に従い践祚(せんそ)已に終んぬ。かの時猶御佛が衆生を見護る冥鑒(みょうかん)を恐るに依り、
両三度是非を言わず、只天子に勅断を
()い、叡問(えいもん)再三に及びし時、道理を以て奏達(そうたつ)す。
の重臣、国の元老、猶重事の軽からざるを恐れ、
屢々(しばしば)自ら(もっぱ)らにするに能わず。
況んや
区々(くく)末生(まっしょう)、不肖の愚臣、得て言上(ごんじょう)すべからず。
(ひとえ)
叡慮(天子のお心)に任せ、須らく御(うらない)を行うべき由、計り(もう)せしむべしと雖も、その條猶恐れあり。
只叡念の欲する所を以て、天運の
(しか)らしめることを存ぜしめおはしますべきかといえり。泰經(院近臣大蔵卿高階)退出し終んぬ。


十六日
(つちのえ)申。
長光入道來たり、古事等を談ず。今夕
受領(院近臣への)除目あり。院の殿上に於てこれを行う。
上卿民部卿
(中納言成範)
、参議右大辧親宗これを書く(清書の儀無しと云々)。
外記を召しこれを下す。
解官(平家一門)等ありと云々。
任命の
(てい)、殆ど物狂(ものぐるい)と謂うべし。
悲しむべし悲しむべし。
*(この日の除目に義仲四位及び源氏の本領伊予守・行家備前守の任命含む)


十八日
(かのえ)(いぬ)。終日雨降る。
今日議定の
(おもむき)、追ってこれを尋ね記すべし。
定めて異議無きか。
近代の作法のみ。
静賢法印(法皇側近)人を以て伝へて云わく、立王の事、義仲猶(ふさぎ)し申すと云々。
この事先ず始め高倉院の両宮を以て
(うらない)せられる處、
官寮共に兄宮を以て吉と爲すことこれを占い申す。
その後、女房丹後(御愛物遊君、今は六條殿と号す)の
夢想(むそう)に云わく、弟宮(四位信隆卿の外孫なり)行幸あり。
松の枝を持ちて行くことこれを見る。法皇に
(もう)す。
仍て
ト筮(ぼくぜい)(そむ)き、四宮(しのみや)を立て奉るべき様(おぼ)()すと云々。
然る間、義仲北陸宮を推挙す。
仍て入道関白(
藤原(松殿)基房(もとふさ))、攝政(藤原(近衛)基通(もとみち))、左大臣(藤原經宗(つねむね))、余、四人召しに応じ、三人参入し、余、病に依り参らず。
かの三人
(おのおの)申されて云わく、北陸宮一切そのようなことをしてはいけない、但し武士の申す所恐れざるべからず。
仍て御トを行われ、かの趣に従わるべし。
松殿は、一向占いに及ばず。御子細を義仲に仰せられるべしと云々。
余只院の勅定を奉る由を申し終んぬ。
仍て折中し御占を行わる處、今度、第一は
四宮(尊成親王)(夢想の事に依るなり)、第二は三宮(推明親王)、第三は北陸宮。官寮共に第一が最吉の由を申す。第二は半吉、第三は始終(こころよ)からず。
占形を以て義仲に遣わす處、申して云わく、先ず北陸宮を以て第一に立てられるべき處、第三に立てられる。
謂はれ無し。
凡そ今度の大功、かの北陸宮の御力なり。

(いか)
でか黙止せんや。
猶、郎従等に申し合せ、左右を申すべきこと申すと云々。
凡そ勿論の事か。
左右する能わず。
凡そ初度の
ト筮(ぼくぜい)、今度のト筮と一二の條を立て替へらる。
甚だ私事あるか。
ト筮は再三せず。

(しか)
るにこの立王の沙汰の間、數度御トあり。
神定めて霊告無きか。
小人の政、萬事一決せず。
悲しむべき世なり。
又聞く、
攝政(基通)法皇に鍾愛(しょうあい)せられる事、昨今の事にあらず。
御逃去以前、先ず五六日密に参り、女房
冷泉局(れいぜいのつぼね)を以て(なかだち)と爲すと云々。
去る七月御
八講(法華八講)(ころ)より、御艶気(つやけ)あり。七月二十日(ころ)、御本意を遂げられ、去る十四日参入の次、又艶言(えんげん)御戯れ等ありと云々。
事の體、御志浅からずと云々。
君臣合體の儀、これを以て至極と爲すべきか。
古來かくの如き
蹤跡(しょうせき)無し。
末代の事、皆以て珍事なり。
勝事なり。
密告の思いを報ぜらる。
その實只愛念より起ると云々。
今旦、大将
(さつ)を送りて云わく、去夜の夢想、春日大明神告げ仰せて云わく、不審に申す事(余の運の事、日來の間、中心これを疑い、その告げを乞うと云々)、更に疑いあるべからず。
即ち夢中にこれを思い、信じ服従すること極まり無しと云々。
幼少の心底この事を思う。
(もっと)(あわれ)むべし憐むべし。この夢又信ずべし信ずべし。


壽永二年八月二十日(みずのえ)()。天晴。
この日、立皇の事あり(高倉院
第四宮(尊成親王)御年四歳、母故正三位修理大夫信隆卿女)。
兼日(けんじつ)(しき)りにその沙汰あり。
先ず高倉院の両宮(三・四宮)を以てト筮せられる(
三宮(推明親王)を以て第一に立つ)處、官寮共に一吉のことを申す。
その後、女房夢想の事あり(子細先日の記に見ゆ。四宮立ち給うべきことなり)。
又義仲加賀国にまします宮を引級する子細先日の記に見える)。
かくの如き間、更に又御
(うらない)あり(今度四宮を以て一に立て、加賀宮を第三に立つと云々)。
又一吉の由をトい申す。第二半吉、第三快からずと云々。
形を以て義仲に遣わす處、
(おおい)忿怨(ふんえん)し申して云わく、先ず次第(しだい)の立て様甚だ以て不当なり。
御歳の次第に依れば、加賀宮第一に立つべきなり。
然らざれば、又初めの如く兄宮を先とせられるべし。
事の體
矯餝(きょうしょく)に似たり。
故三條宮の至孝を思し食さざる條、
(はなは)だ以て遺恨と云々。
然れども一昨日重ねて御使を遣わし(
僧正(東塔五智院)俊堯(しゅんぎょう)、木曾の定使なり)、數遍往還し、(ねが)いに御(さだめ)にあるべきことを申す。
仍てその後一決すると云々。
今日の事、新儀たるに依り、
左大臣(經宗)次第を造進し、かの趣に就き行うべしと云々。
刻限を
兼光(左中辧)に問う處、秉燭(へいしょく)のことを申す。
然れども人々已に院に参ると云々。
仍て酉
の刻(午後六時)、右大将束帯を着く(蒔絵の(つるぎ)
無文の帯の例、譲位螺鈿の劔有文なり。然れども宣命宣制の儀無し。
事又晴にあらず。
仍て無文たるべきこと、人々存知の上、新造の次第この由を記載すると云々)。
先ず院に参る。
西中門の廊を以て公卿の座と爲す(ニ行に畳を敷き、
台盤(だいばん)(ふだ)等を立てず)。
時に御名字定める間なり。

大将
(良通)
着座の後、經房(左大辧)發語。この事、兼ねて一切存せざる間、進退度を失うと雖も、左大臣(經宗)(しき)りに目(くばせ)せられる。
仍て所存無く、只その人に同ずることを申し終んぬ(
親(源宰相中将)に同ずると云々)と云々。
定めの趣、

 左大臣(經宗)皇后宮大夫(大納言實房)、左大辧(經房)等、(たかひら)親王用いられるべきことを申す。   
大将(良通)實宗(右宰相中将)長方(押小路中納言)(源宰相中将)等、永仁宜しきことを申し終んぬ。

兼光(左中辧)人々の申状を聞き、御所に参り終んぬと云々。
次に伝国の宣命あり。
奏聞の事、外記内記(大外記光輔なり)等注す。
自ら
(みぎり)(かえ)り、外記敬屈し(ただ)称す。
大臣大いに咎め、居すべきことを仰せられる。
然れども
(大外記)居せず、又参上の時、猶居せずと云々。
その後、人々引率し閉院に参る。
これより先、若宮院の御所に於て、密々御着
(はかま)の後(實房卿(大納言皇后大夫)腰を結ぶ)、閑院に(わたり)御す秉燭(へいしょく)以後)。
殿上人衣冠前駆すると云々。
公卿、対の南
広庇(こうび)(あたり)を徘徊す。
この間、
大刀契(だいとけい)、鈴印等(共に大内にあり)、これを渡される。
(よって)事の所司供奉(ともにたてまつり)例の如し。
その後數刻を經、殆ど
二時(ふたとき)(ばか)りに及ぶと云々。
子の終り
(午前1時)主上(後鳥羽天皇4歳)
出御し、攝政(基通)御前に着く(東の対西面を以て御座と爲す)。
蔵人を補す(先朝の一臈)。
又公卿に仰せ昇殿する。
勅授等皆例の如し。
先ず
攝政(基通)拝する後、公卿昇殿し拝すること又例の如し。
左大臣
(藤原經宗)
巳下、納言等皆退出す。
家通卿
(中納言左衛門督)
上卿たりと云々。
これ皆
大将(良通)の口状なり。
子細左大臣の次第に見ゆ。
左に続く。
劔璽を得ず
践祚(せんそ)の例、希代の珍事なり。
仍てこれを続き加う。

践祚(せんそ)の次第、左大臣造る。

 早旦、院に於て職事(しきじ)(職事頭辧兼光(左中辧)なり、今度攝政(基通)参らず)、陰陽師を召し、
践祚(せんそ)の日時を()えしむ(便宜の所に於て(もちこた)うべきか)。
刻限、
攝政(基通)以下院に参られる(無文帯蒔絵の劔)。
大臣已下殿上に着く。
次に職事
践祚(せんそ)の日時を大臣に下す。
仰せて云わく、今日
践祚(せんそ)の事あるべしといえり。
次に大臣大外記を召し(
左大臣(經宗)上卿となり、大外記頼業奉行)、日時を下し給う。
仰せて云わく、今日
践祚(せんそ)の事あるべし。
清司に召し仰せよ。

次に職事(職事兼光(左中辧))、院宣を奉り、伝国の宣命を作らしめるべきこと大臣に仰す。
この間、職事又院宣を奉り、頭蔵人昇殿、人々の交名を
攝政(基通)(たてまつ)る。
次に大臣大内記(内記
(大内記))を召し、宣命の事を仰す。
太上法皇の
詔旨(しょうし)を記載すべき旨、これを仰せ下すべし。
攝政(基通)の事これを記載すべし。
先帝不慮に位を
脱屣(だっし)の事、同じく記載すべきか。

次に内記宣命の草案を進め

 

次に大臣内記を召し仰せて云わく、清書せしめ進めるべし。

次に内記清書の宣命を進める。
その間の儀、先の如し。
職事を以て院の奏を内覧する。

次に大臣大外記を召し、宣命を給う((はこ)に入れながらこれを給う)。
仰せて云わく、中務に伝へ給うべし。

次に攝政(基通)以下相引き、閉院に参られる(劔璽を渡されるべからず。
仍て歩行の儀あるべからず)。
この間
大刀契(だいとけい)以下、大内より閑院に渡されるべし(縁事の諸司例に任せ供奉すべし)。
大刀契を内侍所邊に置き、陣座に引き立て、南庭に版位を置き、
炬火(かがりび)屋を立つ。

攝政(基通)以下、参入の後(勅授の公卿劔を解くべし)。
新帝昼の御座に着御す(直衣、総角せず)。
攝政同じ御座の邊の圓座に着く。

次に攝政蔵人一臈を召す(先朝一臈源()())。
蔵人地上に候い、
(まか)り登るべきことを仰す。
即ち
簀子(すのこ)敷に候う。

次に攝政仰せて云わく、蔵人に補すべし。
地に下り拝舞して退き帰り、殿上に候う。

次に攝政又蔵人を召す(初めの人)。殿上より参入する。

次に攝政(基通)仰せられて云わく、公卿の牛車。
勅授
(ちょくじゅ)
昇殿(もと)の如し。
頭蔵人、昇殿の人々、雑色、非雑色、出納、滝ロ等の事、又禁色、雑色、
雑袍(ざっぽう)の事(公卿の平服)同じく仰せられる。

次に蔵人、牛車勅授、禁色雑袍の事、大臣に仰す。

次に大臣弓場殿邊に於て外記を召しこれを仰す(或は仗座に於てこれを仰す)。この間、勅授公卿帯劔する。

次に攝政(基通)座を起ち弓場に進み慶賀拝舞(はいむ)(拝礼)を奏す。

次に大臣以下公卿、弓場に於て拝舞(攝政この列に加はり又拝舞)。

次に攝政以下殿上に着く(膳を居う。三ケ日これを居う)。

次に攝政御前に帰参す。

次に蔵人(一臈)殿上ロに於て出納を召し、頭蔵人、昇殿の人々、雑色、非雑色、出納、滝口の事を仰す。
次に頭蔵人、殿上人拝舞昇殿する。
次に御調度等を立つ(例の如し)。

  御(しゃく)、若し先帝(さきのみかど)相具さしめおわしまさば、適切な人に兼ねて牙笏(げしゃく)(象牙の笏)を召すべきか。

この間攝政(基通)直廬(じきろ)に於て古書を覧る。

次に大臣以下(大臣已下多く以て退出する。
仍て中納言
家通卿(左衛門督)上卿たり)、仗座に着く(舎人をして(しきみ)を置かしむ)。
所司兼ねて膳を備う(辧少納言勧盃、三ケ日この事あり)。
申文あり、
職事(しきじ)吉書を下す(大臣辧を召しこれを給う)。

次に職事來たり、警固、固関の事を仰す。

次に大臣外記を召し、警固の事六府三寮に伝へ仰すべきことこれを仰せられる。
次に辧を召し、三ケ国固関、国司に付するべきことこれを仰せられる。

次に内侍所の御供を供する(三ケ日この事あり。これより先、内侍所の浜床御座等を装うべし)。

次に御膳(朝夕、主上着御すべからす。幼主の時の例なり。
蔵人頭(くらうどのかみ)陪膳を爲す)。

次に蔵人陪膳記を書く。 

次に(すず)(なわ巻)を殿上に懸ける。
この間所の簡を書く。

次に殿上の日(たまわり)(おわ)り、簡を封じ袋に入れる。

次に内豎(ないじゅ)時を(そう)す。

次に滝ロ門籍を申す。

次に諸陣の見参を問う。

次に殿上の名謁(めいえつ)(或はこれ無し)。

次に近衛夜行。

翌日、不審の事等兼光(左中辧)に問う。
返事かくの如し。

 劔璽の事、

  諸道の勘文(かんもん)これを進上する(書写返し遣わし終んぬ)。

 時簡の事、

  新調せられ候う。伊經銘を書かしめ候う。

 御椅子の事、

  細殿の螺鈿(らでん)の御椅子を用いられ候う。
但し螺鈿の彩色隠れ候うなり。

 御(しゃく)の事、

  累代の御笏に候う。

 御乳母の事、

  未だ定めず候う。

御即位の事、

 來たる十月二十七日のこと、その聞え候うなり。

蔵人頭(くらうどのかみ)

  左中将隆房朝臣、左中辧兼光朝臣、

蔵人、

  五位、

   左衛門權佐(ごんすけ)親家、右衛門權佐定長、

   宮内少輔親經、

    已上皆先朝の職事(しきじ)なり。

 六位、

   源清實(先朝の下臈、(三位入道藤)(俊成の家司)の子)、藤原範綱(民部(右大辧)(藤親宗)猶子(ゆうし・甥)、基明の子)、同光親(光雅(右中辧)の子)、高階泰家(家司兼實の子)、源家光(行家の子)、

殿上人、

 正四位下、

  内蔵頭(うちくらのかみ) 雅隆朝臣、左中将通資朝臣、右中将雅賢朝臣、右中将實教朝臣、右中辧光雅朝臣、

 従四位上、

  左少将基宗朝臣、右少将實明朝臣、權中辧行隆朝臣、右少将定輔朝臣、右少将基範朝臣、

 従四位下、

  左少将兼宗朝臣、左中将良經朝臣、

 正五位下、

  左少辧光長、右少将成定、侍従成家、右少将伊輔、

  右少辧兼忠、右少将範能、出雲守朝定、右少将(定能)(卿息)、左少将兼經、

所衆、滝ロ等各三人、先朝より渡さると云々。

  内侍二人、

   美作(みまさか)(勾当)、伊與(いよ)(已上先朝)。


壽永二年(1183)

九月小建

三日(きのと)丑。天陰る。時々雨降る。
隆職(太夫)の許より去夜行われし事等を注送す。

 政始め(上卿堀川大納言忠親卿、参議三人、基家(右京太夫)定能(宰相中将)親宗(右大辧平))。

 女官除目(じもく)(上卿左兵衛督家通(中納言)、執筆右大辧親宗(参議))。

 開關(かいせき)、解陣(上卿同人)。

 除目、

  勅旨、

   内侍司(ないしのつかさ)

    (ないし)(のすけ)従五位下藤原朝臣真子、

    典侍従五位下藤原朝臣公子、

    (ないし)(のじょう)正六位上藤原朝臣憲子、

    掌侍正六位上藤原朝臣積子、

     壽永二年九月二日

或人云わく、頼朝、去月二十七日国を出で已に上洛すると云々。
但し信受せず。
義仲偏に立ち合うべく支度すると云々。
天下今一重の暴乱出で來たるか。
凡そ近日の天下武士の外、一日存命の計略無し。
仍て上下多く
片山(かたやま)田舎(いなか)等に逃げ去ると云々。
四方皆塞がり(四国及び山陽道安芸以西、鎮西等、平氏征伐以前、通達すること能わず。
北陸山陽両道、義仲押領する。
院分已下の宰吏一切吏務能わず。
東山東海両道、頼朝上洛以前、又進退すること能わずと云々)、
畿内(大和・山城・河内・和泉・摂津の五国)近邊の人領、併しながら苅り取られ終んぬ。
段歩(たんぶ)残らず。
又京中の片山及び神社佛寺、人屋在家、悉く以て
追捕(ついぶ)す。
その外
(たまたま)不慮の前途を遂げる所の庄上の運上物、多少を論ぜず、貴賤を(いと)わず、皆以て奪い取り終んぬ。
この難市邊に及び、昨日買売の便を失うと云々。
天何ぞ無罪の衆生を
()つるや。
悲しむべし悲しむべし。
かくの如き災難、法皇
嗜欲(しよく)の乱政と源氏奢逸(しゃいつ)の悪行とより出ずる。
然る間、
社稷(しゃしょく)を思う忠臣、俗塵を(のが)聖人、各非分の横難に遭い、殆ど成佛の直道を怠る。
哀しむべきは只前世の犯した
宿業(しゅくごう)のみ。


四日
(ひのえ)寅。陰晴未だ定まらず。
前源中納言雅頼卿來たる。
(やま)いに依り簾を隔ててこれに謁見する。
世上の事等、多く以て
談説(だんえつ)す。
その中余のため無用の事等あり。
去る
(ころ)、義仲の許に落書あり。
即ち義仲の所行の不当非法等、悉く以て
注載(ちゅうさい)する。
その次余登用せられざる、尤も不便、朝の重器たること、具さに以てこれを記載すと云々。
この事余の邊の事不快に存ずる輩の
所爲(しわざ)か云々。
誠にこの事甚だ由無き事なり。
又語りて云わく、頼朝必定上洛するべし。
次官
(斎院次官中原広季(ひろすえ)の男)は、頼朝と甚深の知音(ちいん)、当時同宿す。
件の者又源中
納言(雅頼)の家人、即ち左少辧兼忠の乳母(うば)の夫なり。
件の男一昨日飛脚を以て示し送りて云わく、十日余りの
(ころ)、必ず上洛するべし。
先ず頼朝の使となり、院に申す事あり。
(斎院次官)上洛するべきなり。
萬事その次に申し承るべしと云々。
かくの如き等の事、多く以て談語し、
(とき)()して後、帰り終んぬ。
明日公卿勅使参着の日なり。
而るに
供花(くげ)を始めらる。
世の傾く所なり。
夜に入り観性
(上人)來たる。
出でながらこれに謁見する。
件の
人内大臣(徳大寺實定)母堂の忌に寵る故なり。
語りて云わく、頼朝今月三日出国、
來月(壽永二年1183)一日(十月)入京すべし。
これ必定の説なりと云々。
但し猶信受せられざる事なり。


五日
(ひのと)卯。雨下る。
早朝或人云わく、平氏の党類、余勢全く滅ぜず。
四国並びに淡路、
安芸(広島県西部)周防(山口県東部)長門(山口県西部北部)並びに鎮西の諸国、一同与力し終んぬ。
旧主(安徳帝)崩御(ほうぎょ)のこと風聞す。
謬説(びゅうせつ)なりと云々。
当時
周防(すおう)の国にあり。
但し国中皇居に用うべき家無し。
仍て船に乗り浪の上に
(うか)ぶと云々。
貞能
(平家重臣)
已下、鎮西武士菊池(熊本の武族)原田(大宰府氏族)等、皆以て同心し、鎮西已に内裏を立て、出で來るに随い關中(かんちゅう)に入るべしと云々。
明年八月京上りべきこと
結構(けっこう)すると云々。
これら皆
浮説(ふせつ)にあらざるなり。
未の刻
(午後2時)
、弥勒講に依り御堂に参り、晩に及び帰り來たる。
近日京中の物取、今
一重(ひとえ)陪増し、一塵の物、途中(みちなか)に持ち出すこと能わず。
京中の萬人、今に於ては、一切存命すること能わず。
義仲院の御領已下、併しながら押領する。
日々陪増し、凡そ
緇素(しそ)貴賤涙を拭わざること無し。
(たの)む所只頼朝の上洛と云々。
かれの賢愚又暗に以て知り難し。
只わが朝の滅亡、その時已に至るか。
法皇敢えて国家の乱亡を知らず。
近日大造作を始められると云々。
院中の上下、
歎息(たんそく)(溜息)の外他事(ほかこと)無きか。
誠に佛法王法滅尽の
(とき)なり。


二十日
(みずのえ)午。天晴。
大将(長子)
(やしき)に向う。(おこ)り日たるに依りてなり。
験者
法印(慈圓)の弟子承慶(じょうけい)なり。
又験佛(薬師の絵像、伝教
大師(最澄)入唐本尊、或人夢の告げに依り余に与うるなり)、枕上(ちんじょう)に懸け奉る。
今日時下又心地宜し。
悦びを爲す少からず。
今日より
(にら)を服するなり。
夜に入り人伝へて云わく、義仲今日
(にわか)に逐電し、行方を知らず、郎従大いに騒ぎ、院中又物忿(ぶっそう)と云々。


二十一日
(みずのと)未。
伝へ聞く、義仲一昨日院に参り、御前に召される。
勅に云わく、天下静ならず。
又平氏放逸、毎事不便なりと云々。
義仲申して云わく、
(まか)り向うべくは、明日早天(あけがた)向うべしと云々。
即ち院手ずから御劔を取りこれを給う。
義仲これを取り退出し、昨日
(にわか)に下向すると云々。


二十三日
(きのと)酉。陰晴定まらず。
定能卿(宰相中将)來たり、雑事を談ず。
人伝へて云わく、行家を追討使に遣わすべきこと、院より再三義仲に仰せられる。
義仲はっきり左右を申さず。
(にわか)に以て逃げ下る。
行家を
()めんためと云々。


二十五日
(ひのと)亥。雨下る。
伝へ聞く、頼朝
文覚(もんがく)聖人(武士・真言僧)を以て義仲等を勘發(かんぼつ)(過失)せしめると云々。
これ追討の懈怠、並びに京中を損ずることと云々。
即ち件の聖人に付き陳じ遣わすと云々。


「玉葉」 巻第三十九

壽永二年(1183)

十月大

二日(みずのと)巳。朝間天陰り、午後雲晴れる。
或人云わく、頼朝の申す所三ケ條の事、一は平家押領する所の神社佛寺の領、
(たし)かに本の如く本社本地に付すべきこと、宣旨を下さるべし。
平氏の滅亡佛神の加護たる故なりと云々。
一は院宮諸家の領、同じく平氏多く以て
虜掠(りょりゃく)すると云々。
これ又
(もと)の如く(もと)の主に返し給い、人の怨みを休められるべしと云々。
一は帰降参來の武士等、
(おのおの)その罪を(なだ)め斬罪に行わるべからず。
その故何とならば、頼朝昔天子による勅命により勘当の身たりと雖も、身命を全うするに依り、今君の御敵を伐つ任に当る。
今又落ち参る輩の中、自らかくの如き類い無からんや。
仍て身を以てこれを思うに、敵軍たりと雖も、帰陣の輩に於ては、罪科を寛大な心で
(ゆる)し、身命を存ぜしめるべしと云々。
この三ケ條折紙に載せて言上すと云々。
一々の申状、義仲等に
(ひと)しからざるか。
御即位の間、人々の
(もうし)状、去夜(攝政執事蔵人少輔)の許に返し遣わす。
返事今日到來し、
紫宸殿(ししんでん)を用いるべきこと、院宣あり。
而るに方角の事に依り、その沙汰未だ切られずと云々。
伝へ聞く、今年
五節(11月中の4日間の舞)あるべしと云々。
即位以前の五節、
(1154~56)の例(二條院)と云々。


九日
(かのえ)子。天晴。
(法皇側近)
法印來たり、世間の事等を談ず。
頼朝使者を
(すすめ)らせ、(たちまち)に上洛すべからずと云々。
一は
(鎮守府将軍奥州藤三代)(常陸介)等、上洛の跡に入れ替るべし。
二は數萬の勢を率い入らせば、京中
(こた)うべからず。
この二つの故に依り、上洛延引すると云々。
凡そ頼朝の
爲體(ていたらく)、威勢厳粛、その(しょう)強烈、成敗分明、理非断決すと云々。
今度使者を
(たてまつ)(ふさぎ)し申す所は、三郎(帯刀)先生(せんじょう)(美乃守)の上洛なり(本名教範)。
又、頼朝の申状に、義仲等平氏を
()わず、朝家を乱す、尤も奇怪、而るに(たちまち)に賞を行わる條(はなは)だ謂われ無しと云々。
申状等その理あるか。
この外多く雑事を談ず。
具さに
(しる)すに能わず。
伝へ聞く、義仲
播州(兵庫県南西部)經廻(けいかい)し、若し頼朝上洛すれば、北陸方に超えるべし。
若し頼朝
(たちま)ちに上洛せざれば、平氏を伐つべきため支度すると云々。
今日小
除目(じもく)ありと云々。
陰陽頭(おんみょうのかみ)賀茂宣憲名誉無しと雖も、重代(じゅうだい)(すいろう)に依り、抽任せられるか。
尤も然るべし。
又頼朝
(もとの)(くらい)に復すること仰せ下さると云々。


十七日
(つちのえ)申。天晴。
の刻(午前6時)虹二筋(その色帯(五色の瑞雲)の如し。
倶に殊に分明)、
(ひつじさる)【南西】より(うしとら)【北東】に至る。
東天(とうてん)赤光(しゃっこう)と云々。
観性
(上人)西山(善峰寺)
に入り終んぬ。
(兼實家司)
相具し行き向う。
地形を見せしめんためなり。
夜に入り雨下る。
伝へ聞く、義仲随兵の中、少々
備前(岡山県南東部)に超え、而してかの国并に備中(岡山県西部)人等勢を起す、皆悉く伐ち取り終んぬ。
即ち備前国を焼き払い帰り去り終んぬと云々。
又聞く、義仲勢無しと云々。


二十三日
(きのえ)寅。天晴。
奈良(興福寺)僧正(別当信圓)
書を送りて云わく、來たる二十七日寺家指し合いの事あり。
二十八九日の間、吉日あれば上洛すべしと云々(小児付けしめんため、上洛せられるべきこと、先日これを示す。
二十七日吉日たるに依り、そのことを
(ふれ)る。
仍て今この
(むね)あり)。
日次を問う。
これより示すべきこと答え終んぬ。
即ち
陰陽師(おんみょうじ)賀茂在宣を召す(図書頭(としょのかみ))。
晩に及び來たる。
簾前に召しこれを問う。
今日院に於て御トあり。
思し食す事始終吉凶如何と云々。
両度
御旨(おぼしめし)あり(未時、申時)。
の時(午後2時)の占い快からず。
の時(午後4時)の占い吉と云々。
これに因り遅参し申す所なり。
余この次に尋問の事等、

(ついたち)(のあさ)の事、

申して云わく、凡そ十九年一章と爲す。
然れば、初め
朔旦(さくたん)の年より二十年と云うに相当るなりと云々。
久安
(1145~51)
朔旦以後、保元(1156~59)又朔旦冬至出で來たり(おわ)りぬ(十四年に当ると云々)。
古來一章と雖も、猶朔旦無き例あり。
年限を縮め中間朔旦ある例無し。
仍て議(
信西(元院の側近60年没)の沙汰)あり止められ終んぬ。
一章を待たざる條、不審ありと雖も、算勘(陰陽道の占い)一切誤らず。
これ天のめでたい
嘉瑞(かずい)を与うるなり。
而るに
(のが)れて用いられざる時、人傾き(あや)しむ所なりと云々。
今度は大略相当り、
(いささ)かの相違ありと雖も、大部算勘に叶うと云々。

一御即位の所(ならび)に方角の事、

申して云わく、去る十四日その沙汰あり。
初め異議無し。
官廳を用いられるべきこと沙汰あり。而るに今度猶紫宸殿宜しいとのこと議出で來たる。
而るに移徒の礼無き條、如何のこと評定あり。
冬至以前王方たり。
その後又
御遊(避けなければ)年方(ならない方角)に当る。
大将軍王相方は、定めて本所宿、その所は一夜忌に付く。
遊年方に至りては、本所旅所を論ぜず、只四十五日を以て忌に付く。
仍て他所に臨幸すべき故なし。
遊年の方を避くること能はず。
春節以後日次無し。
十二月十九日戌日遷幸、二十二日(もと撰ぶ所の御即位の日なり)、即位宜しかるべきこと
(陰陽頭)(加茂)申さしむ。
而るに
在宣(陰陽師図書頭)申して云わく、猶戌日を犯さる、快からざるなり。
只当日払暁臨幸あり、即位の後、日ならず還御し、一宿あるべからず。
然らば方角の沙汰に及ぶべからず【空海大師日わく「五體には天地方角そなえおく方のよしあし無益なりけり」】。
御移徒以前即位を行わる、殊なる難無かるべきこと申し終んぬと云々。大内閉院より
(いぬい)(かた)に当ると云々。

衰日(すいじつ)申日(さるのひ)(つごもり)等の忌軽重の事、

二十八日は小童の衰日なり。
二十九日は申日なり三十日は
晦日(つごもり)なり。
仍てこれを問う。
申して云わく、申日は吉事を行わず、勿論晦日又快からず。
衰日は吉事を行うべき文ありと云々。
その文に云わく、善を修し悪を払うと云々。
余云わく、文の如くは、佛神に祈り悪を払うべきことなり。
吉事を行うべき意にあらざるかといえり。
在宣云わく、善をば修して悪をば払うべしと読むべきこと、先達存じているので。
仍て先達多くこのことを申すなりと云々。
然れども今の仰せ又その謂われあり。
所詮晦日と衰との軽重の本文、并に吉事を行わる例等、注進するべしと云々。
或人云わく、義仲に
上野(群馬県)信濃(長野県)を賜うべし、北陸を虜掠(りょりゃく)しないように、仰せ遣わされ終んぬ。
又頼朝の許へも件の両国義仲に賜うべし。
和平すべきこと仰せられ終んぬと云々。
この事或下臈の申状に依り、
俊堯(叡山東塔五智院)僧正一昨日院に参り(御持佛堂(おんじぶつどう)の時と云々)、このことを法皇に申す。
善しと称し、即ち僧正の
諌言(かんげん)に従い、(たちま)ちにこの院の綸旨(りんじ)(蔵人が天皇の意を受けて発給する命令文)を(おろ)され終んぬと云々。
この條愚案一切叶うべからず。
凡そ国家滅亡の結願、只この事にあり。

弾指
(だんじ)
すべし弾指すべし。
朝廷にある王侯
卿相(けいしょう)緇素(しそ)(僧と俗人)貴賤、(しか)しながら私を顧み公にあらず。
實にこれ愚にして猶愚なり。
国にあるならば家を建つること無し。
君にあるならば親を立つること無し。
身の安全を思えば、先ず国家
静謐(せいひつ)(太平)の籌策(ちゅうさく)を廻すべき處、各、
左右を恐れ、敢えて
讜言(とうげん)【正しい言葉】せず、又皆重事を(はか)(ます)無いだろうか。
悲しむべし悲しむべし。


二十八日
(つちのと)未。天晴。
伝へ聞く、頼朝去る十九日国を出で、來たる十一月
朔比(ついたちころ)入京すべし。
これ
一定(いちじょう)の説と云々。
又義仲去る二十六日(或は二十八日即ち今日なり)国を出で、來月四五日の間入洛するべし。
頼朝と雌雄を決せんためと云々。
これに因り院中已下天下の人皆以て
(あわただ)しいと云々。
人皆言う所あるか。
恐るべし恐るべし。
今日
(蔵人少輔攝政執事)來たり、五節の事を辞退する。


壽永二年(1183)

閑十月

二日(みずのと)亥。天晴。
の刻(正午)、右中辧光雅が院の御使となり來たる。
念誦(念佛誦経)の間に依り、客亭に出でず、簾前に召しこれに謁見する。(広庇なり)。
光雅仰せて云わく、天下の乱逆、
連々(つれづれ)了る時無し。
これ偏に
崇徳院(保元の乱1156年)の怨霊たること、世の謳歌する所なり。
仍て
神祠(しんし)(神の(ほこら))を成勝寺の中に建つべきこと、院の叡慮これあり。
かの寺の行事辧
光長(左少辧)に仰せ、その沙汰ありし處、猶御思惟あり。
去る
(ころ)占者に(おとずれ)る處、占いの趣(はなは)だ快からずと云々。
仍て重ねて改葬あるべきか否やのことを問われる。
最吉のことを申す。
仍てその趣に就き沙汰あるべき處、先規已に廃帝及び崇徳天皇等の例に
邂逅(かいこう)す。
大旨
(おおむね)
国史に記載すと雖も、子細詳ならず。
随って又事幽玄、専ら遊行せられ難し。
宜しきに随い計らい行われるべきか。
かの息法印に仰せられ、偏にかれの沙汰とし遂げ行われる、時は議に叶うか。

(まさ)
に又院より別使を差し副えられるべきか。
計らい申さしむべしといえり。
兼ねて又日時院に於て勘えられるべきか。
又その地如何。
又廃帝等の例に准ずれば、山陵を置かれるべきか。
かくの如きの間の事、
(まか)せて思量(しりょう)して(もう)しあげるべしといえり。

申して云わく、先ず改葬の條、必ずしもそのようなことをしてはいけないと雖も、偏に御占の趣に就き、行われるべきこと仰せ下さる。
異議に及ぶべからず。
その上、沙汰の趣、只
勅定(ちょくじょう)にあるべし。
但しかの法印、当時現存、尤も便宜あるべきか。
その人あれば、院より御使を副えられる、何事かあらんや。
日時に於ては、尤も院に於て勘えられるべきか。
その人無いならば、又人を副えられずと雖も、何事かこれあらんや。
その所に於ては、暗に只今計らい
(もう)し難し。
且つかの法印に仰せ合わさる、尤も宜しきか。
兼ねて又山陵を置かる事、しなければならないか。
その故は、中古以來、
遺詔(いしょう)(天皇の遺言)に依り、代々の帝王已にこの事無し。
且つ怨心をはらいのぞくため、山陵を
()かる(隠す)條、道理に合わず。
只佛教に就きて菩提を
(おとずら)い奉られるに過ぐてはいけないかと云々。
光雅
(右中辧)
又云わく、平城上皇の乱の時、弘仁(810~24)柏原山陵(桓武天皇陵)一所に申される。
かの例に任せ、保元の乱の時、
安楽壽院(鳥羽天皇陵)一所に申される。
今度の事、又尤もかの寺に申されるべきか。
(しこう)して金剛院(待賢門院陵)を加えられる、如何。
又告文あるべきや。
その使公卿か如何といえり。
申して云わく、両寺に申される尤も然るべし。
告文必ず使者あるべし。
公卿四位殿上人の間、時議に依るべし。
則ち
光雅(右中辧)帰り終んぬ。この事()べて拠る所無きか。
の刻(午後4時)、頭辧兼光(左中辧)來たる。
余これに謁見する(その儀光雅に同じ。
蔵人頭(くらうどのかみ)と雖も家司(けいし)たるの故なり)。
語りて云わく、平氏始め鎮西に入ると雖も、国人等用いざるに依り、逃げ出で、長門国に向う間、又国中に入れず、仍て四国に
(かか)り終んぬ。
(平氏重臣)
は出家して西国に留り終んぬと云々。
このこと
周防(山口東部)伊豫(愛媛中部)両国より飛脚を進め申されると云々。
又私に義仲の使を
兼光(左中辧)の許に送る。
その男の説云々の如し。
相違無し。
その上申して云わく、
前内府(前大納言右大将平宗盛)の許より、使者を義仲の許に送って云わく、今に於ては偏に帰降すべし。
只命を乞わんと欲すと云々。
この上神鏡劔璽、事の障り無く迎へ取り奉られ難き事、第一の大事なり。
次第の沙汰又以て説に
(そむ)くか。
兼光(左中辧)又云わく、改元あるべきこと、頼業(大外記)真人(まひと)申される。
これに依り適切なか否や、計らい申さしめ給うべきこと、御
気色(ありさま)ありといえり。
申して云わく、今度の事已に
常篇(ふつう)に絶えたり。
然れば年の改めるを待たず、急ぎ改元行われる、已に
經史(經書史書)の意に叶う。
尤も然るべしといえり。

兼光
(左中辧)
語りて云わく、北野(大内裏の)御幸の賞、別当權別当共に僧都(そうず)に補せられると云々。
この事未曾有なり。
別当は
(元民部卿藤原)入道の子なり。
三十未満の人と云々。
又云わく、件の
(ついで)北野(北野天満宮)内の小神等、神位を増さる間、(御祭神菅公四世)定義(御祭神菅公六世)両人神階(神位)を加えると云々。
この事驚奇少からず。
かの両人は、昔朝廷に仕える。
已にこれ
人臣(じんしん)なり。
今小神を祝う條、
氏人(うじびと)の今案か。
公家の知しめす所にあらず。
而るに階級を加えられるは、已に
贈位(ぞうい)か。
そのこと
(いとぐち)如何。
次第甚だ不審、大略有れども亡きが
(ごと)きか。
勿論々々。
(やや)久しくありて兼光(左中辧)帰り終んぬ。


六日
(ひのと)卯。天晴。
の刻(午後4時)中将(蔵人頭左近衛藤原)隆房來たり、大将の五節参入の事を仰せる。
(家司手水陪膳)を以て返事を示す後、余これに謁見す。
猶一切叶うてはいけないことますます御健勝のこととお喜び申し上げます。
平素は格別のご高配を賜り、厚くお礼申し上げます。
終んぬ。
凡そ
(ならわし)参入御覧共にこれを勤仕する。
又上
雑仕(ぞうし)樋洗(おけあらい)あり。
又下仕四人なり。
而るに今一事を勤め、
凡俗(ぼんぞく)に混ずる條、専らそのようなことをしてはいけない。
余先年奉仕の時、
故殿(藤原忠通)奈良大衆の事に依り、世間を忿怨(ふんえん怒り怨む)の間、両事共に勤仕せざるなり。
今度偏にかの例に依るべきなり。
中心この旨を存ずと雖も、上奏この
(ことば)を出さず。
善悪分別無き世間に依りてなり。
伝へ聞く、頼朝上洛成し難き間、その實そのようなことをしてはいけないと云々。
又義仲今両三日の間、帰洛すべし。
洛中又滅亡すべしと云々。
下仕の装束色目を
攝政(基通)(たてまつ)る((兼實家司)を使と爲す)。


十三日
(きのえ)戌。天晴。
晩に及び大
夫史(小槻)(たかもと)來たる。
世間の事を談ず。
平氏
讃岐(香川県)にありと云々。
或説に、女房の船に
主上(安徳帝)并に劔璽を具し奉り、伊豫(愛媛県中部)にありと云々。
但しこの條未だ實説を聞かずと云々。
又語りて云わく、院の御使廳官泰貞、去る
(ころ)頼朝の許に向い終んぬ。
仰せの趣
(こと)なる事無し。
義仲と和平すべきのことなり。

(そもそも)
東海東山北隆三道の庄園、国領(もと)の如く領知すべきこと、宣下せられるべき旨、頼朝申請する。
仍て宣旨を下さる處、北陸道
(あた)り、義仲を恐るに依り、その宣旨をなされず。
頼朝これを聞かば定めて
(うつ)を結ぶか。
(はなは)だ不便の事なりと云々。
この事未だ聞かず。
驚き思うこと少からず少からず。
この事
(大夫史)不審に堪えず、(院の近臣大蔵卿高階)に問う處、答えて云わく、頼朝は恐るべしと雖も遠境にあり。
義仲は当時京にあり。
(まさに)罸恐れあり。
仍て不当と雖も北陸を除かれ了ること答えしむと云う。
天子の政、
(あに)以てかくの如きや。
小人近臣となり、天下の乱止むべきの期無きか。
又語りて云わく、
北野(天満宮)の小神等((御祭神菅公四世)定義(御祭神菅公六世))、神位贈位の間の事未だ決せられず。
社に於てそのことを仰せられると雖も、未だ宣下せられずと云々。
この事
(ひとえ)(右衛門權佐院近臣)の不覚なり。
左右する能わずと云々。
又云わく、御即位紫宸殿に於て行わるべきこと、一日仰せ下され終んぬと云々,
(やや)久しくありて退出し終んぬ。
夜に入り
(少納言寂慧)入道來たり、大将(良通)の作る所の詩等を見せしむ。
褒誉(ほうよ)を加える。
(ふかまり)
更に及び退出し終んぬ。


十四日
(きのと)亥。天晴。
の刻(午後4時)(あた)り人告げて云わく、平氏の兵強く、前陣の官軍、多く以て敗られ終んぬ。
仍て
播磨(兵庫県西南部)より更に義仲備中(岡山県西部)に赴くこと風聞す。
随って又御使を以て、上洛を制せられる。
承り了ることを申す。
而るに
(たちま)ちに以て上洛のこと。
今夕明旦の間、入洛すべきこと、昨日の夕飛脚到來する。
その後院中の男女、上下周章極み無し。
(あたか)も戦場に交るが如し。
その事漏れ
(きこ)える間、京中の人屋、去夜今朝の間、雑物を東西に運び、妻子を邊土に遣わし、萬人色を失い、一天の騒動、敢えて云うべからずと云々。
余遅くこれを聞き、使を以て
(手陪膳院の臣)の許に尋ね遣わす處、事已に事實なりと云々。
去夜子
の時(深夜12時)經家(宮内卿)朝臣の妻男子を産み、即ち夭亡(ようぼう)し終ると云々。
(従三位刑部卿)
入道最愛の娘なり。
入道飯室にあり。
(のこ)り告げ終ると云々。
父母現存す。
その
哀慟(あいどう)()すに、實に以て悲しむべし。
凡そ今年の産、多くこの聞えあり。
恐るべき事か。
今夜終夜
()ねられず。
法皇逐電あるべきこと、世人疑いを爲す故なり。
然れども遂に以てその事無く、天
()け終んぬ。


十五日
(ひのえ)子。夜より甚雨(じんう)。終日止まず。
頭辧
兼光(左中辧)問送して云わく、改元の事、御即位前後の間の事、外記(書類の)(内容を)(問い)申す(正す爲)(チェックした所)かくの如し。
重ねて計らい申さしむべしといえり。
外記の申状写し留めず。
大略
頼業(大外記)前後勅定にあるべきことを申す。
(大外記)今年の改元しなければならないことを申すか。
返事に云わく、

改元の事、今度伝国の儀、(こと)常篇に異なり。
經史
(經と歴史)
の説に依り、宝亀(770~81)の跡に任せ、年を()えるを待たず、
元号を改められる、尤も
時議(じぎ)に叶うべきこと、素より存じ申すべきなり。
而るに即位以前の條、例に
(そむ)(ことわり)を忘る。
仍て驚き申さしむる
(ことわ)りなり。
変異を消し騒乱を鎮めんがため、改元を行われるは、事
定準(じゅん)たり。
理然るべしと雖も、その事實を論ずれば
(すこぶ)る無益か。
後鑒(後鑑)の及ぶ所、号令を顕わさしめんための所以(ゆえん)あるなり。
然れば則ち年内の改元、理ありて難無し。
何ぞ
(たちま)ちにその儀を変ぜんや。
(そもそも)即位同日後日の條、かれこれ共にその難あるべからず。
(たと)い裁跡に准じ元号を改めると雖も、今近例に就き、礼儀を行われる、何の妨げあらんや。
若し然らば、後日行われるべきか。
但し兼日
勘文(かんもん)を召し、()ねて有識の輩に諮詢(しじゅん)し、当日仰せ下され、始終薫風(南風)()ふ。
首尾相応すべきか。
両ケの間、臨時に進退せられるべきか。
凡そ傍難無く、
禁忌(きんき)無き事、只時宜(じぎ)に随うを以て、(なだめる)と爲すべき故なりといえり。
これらの趣を以て、
(もら)(もう)せられるべき状件の如し。
師尚(大外記)の申状に云わく、天変怪異、并に天下の乱逆に依り、改元を行わるべきか。
然らずは、明年行わるべし。
今年はしなければならないこと申せしむるなり。
仍てその仔細を申す所なり。
只愚意の所存は、代々
受禅(譲位の後文)(を以て治む)の儀に依り、皆(いよいよ)年を期するなり。今度希代の立王たり。
仍てその旨趣を顕わさんため、漢史晋史の例を
(かんが)へ、(奈良時代白亀出現や)(瑞亀献上による改元)の例を()い、今年改元あるべきこと、頼業(大外記)勘へ申す趣、拠用(きょよう)せられるべき旨、計らい申す所なり。
而るにこの條是非を申さず。
只乱を鎮めんため、改元あるべきかのことを申す條、
(はなは)だ所詮無し。
仍てその旨を注し言上す。
定めて時議に
(そむ)くか。
頼業(大外記)勘文(かんもん)(うるう)月十一日等の例悪しからざることを申す。
この條即位以前と雖も、
(なんじ)しかるてはいけないこと存ぜしめるか。
この條勿論なり。
人皆申し出ずるる所を
(とお)せしめんため、朝政の違乱を知らず、又人事を難ぜんため、道理を忘る。
末代の人心、事に於てかくの如し。何をかせん何をかせん。今日義仲入京し終んぬ。その勢甚だ少しと云々。


十六日
(ひのと)丑。雨下る。
今日義仲院に参る。
條々仰せを承り、又申さしむと云々。
仔細これを尋ぬべし。
夜に入り
大将(良通)中将(良經)密々詩あり。
(少納言寂慧)
入道その座にあり。


十七日(つちのえ)寅。天陰る。
(法皇側近)
法印密々告げ送りて云わく、昨日義仲院に参り申して云わく、平氏一旦勝に乗ると雖も、始終不審に及ぶべからず。
鎮西の輩与力すてはいけないこと仰せ遣わし終んぬ。
又山陰道の武士等、併せながら
備中国(岡山県西部)にあり。
更に恐れに及ぶべからずと云々。
又頼朝の弟九郎(實名を知らず)、大将軍となり數萬の
軍兵(ぐんぴょう)を卒して、上洛を企つること、承り及ぶ所なり。
その事を防がんため、急ぎ上洛する所なり。

()
し事一定(いちじょう)ならば、行き向うべし。
實ならずはこの限りにあらず。
今両三日の内、その左右を承るべし云々といえり。
已上義仲の申状なり。
只今外聞に及ぶべからず。
竊に告げ申す所なりと云々。
平氏不審あるてはいけないこと申さしむる條、甚だ以て荒涼の事か。
或人云わく、頼朝の郎従等、多く以て
(鎮守府将軍奥州藤原三代)の許に向う。
仍て秀平頼朝の士卒異心あることを知り、内々飛脚を以て義仲に触れ示す。
この時東西より頼朝を攻めるべきことなりと云々。
この告げを得て、義仲平氏を知らず、迷いて帰洛すと云々。
かくの如き事實や否や知り難き事か。
の刻(正)、蔵人左衛門權佐親雅院の御使となり來たり、
問いて云わく、
朔旦(さくたん)の叙位、式日を以て、これを行わば、下名位記等を賜う儀如何。
嘉承の例に依り、即位の叙位に合わせ行わんと欲す。

(天子が喪に伏す一年)
にある例なり。
計らい申すべしといえり。
申して云わく、
嘉承の例(堀河⇒鳥羽)全く()まるべからず。
合せ行う
(ほか)異議無しといえり。


十八日
(つちのと)卯。雨晴る。
女医博士經基來たる。
姫君并に
中将(良經)等の歯を取る。
主税頭(しゅぜいのかみ)定長(右衛門權佐)來たる。
医書等を見せしむ。
晩に及び
(院の臣手水陪膳)來たり世上の事を談ず。
この次、件の男云わく、
四方(よも)皆塞ぐ。
中国の上下併しながら餓死すべし。この事一切疑うべからず。
西海に於ては、謀叛の地にあらずと雖も、平氏四国にあり通ぜしめざる間、又同じ事なり。
加之(くわえて)、義仲の所存、君偏に頼朝を庶幾(こいねが)い、殆どかれを以て義仲を殺さんと
せられるかのこと
僻推(へきすい)を爲すか、(まさに)告げ示す人あるかといえり。
かくの如き間、法皇を怨み奉り、兼ねて又御逐電の事を疑う。
これに依り
(たちまち)に敗績の官軍を()てて、迷い上洛する所なり。
然れども
(たちまち)に平家を討つ事叶うべからず。
平氏猶存せば、西国の運上、又叶うべからず。
仍て且つは平氏を討たしめんため、且つは義仲の意趣に
(かな)わんため、法皇叡慮
より起り、早く西国に赴かしめおわしますべきなり。
只先ず
播磨国(兵庫県南西部)に臨幸あるべし。
然らば
南西国(みなみさいごく)等の住人等、皆風に向い子のごとく(くる)べきなり。
その時鎮西等の勢を發し、平氏を
誅伐(ちゅうばつ)し了るべし。
以後還御あるべきなり。
この外凡そ他の
(はかりごと)無しと云々。
即ちこの
(むね)を以て(院の近臣大蔵卿高階)に示す。
泰經甘心し、又
(法皇側近)法師に示す。
静賢又以て
服膺(ふくよう)す。
然れども未だこの旨天聴に達せずと云々。
余これを案ずるに、立つる所の次第、その理適切なか。
但し若し西海に臨幸あれば、偏に義仲等に釣り具せられ、頼朝に
(たがい)(そむく)のこと、
決定(けつじょう)存ぜしめるか。
これ天下猶一日と雖も、頼朝
執權(しっけん)すべき運あるかのこと、素より愚案する所なり。
然れば偏にかの頼朝を変ぜられる條、尤も思慮あるべきか。
愚意の所存、只道理を以て仰せ聞かれ、かれこれ神佛
祈請(きせい)し、強ちにこの勇士等を
恐れず、
正道(せいどう)を以て天下に行われば、(もろもろの)(わざわい)消ゆべきなり。
只先ず猶平氏を討つべきこと、義仲に仰せられ、別の使者を以て、又頼朝の許に、仔細を
仰せ遣わさるべきなり。
左右無く御下向の條猶王者の
(ふるま)いにあらざるか。
然れども口外せざるそのなり。

(院の臣手水陪膳)
の議、小人の(はかりごと)と謂うべし。
悲しむべき世なり。


十九日
(かのえ)辰。天晴。
堂に向い文書の沙汰あり。
或人云わく、
()る二十六日御遠行あるべしと云々。
これ昨日
(院の臣)語る所の儀状か。
(まさに)又義仲院已下宗たる公卿等を具し奉り、北陸に向うべきこと風聞する。
この両事の問か。凡そ左右すること能わずと云々。
法皇今日より三ケ日今比叡に参寵し給うべしと雖も、天下物騒しきに依り、
(たちま)ちに
以て還御すと云々。
凡そ院中の近臣の周章極み無しと云々。
何事かを知らず。


二十日
(かのと)已。天晴。
早旦大外記頼業來たる。
昨日の召しに依りてなり。
(ほぼ)示し仰する事あり。
申す所然るべし。
今日
(法皇側近)法師院の御使となり、義仲の家に向い、仰せて云わく、その心(よろこ)
ばざること聞き食す。
仔細如何。
身の暇を申さず、
(にわか)に関東に下向すべしと云々。
この事等驚き思し食す所なり云々といえり。
申して云わく、君を怨み奉る事二ケ條、
その一は、頼朝を召し上げられなければならないことを申すと雖も、御
承引(しょういん)無く、
猶以て召し遣わされ終んぬ。
この二は、東海東山北陸等の国々に下されし所の宣旨に云わく、若しこの宣旨に随わざる
輩に於ては、頼朝の命に随い追討すべしと云々。
この状義仲生涯の遺恨たるなりと云々。
又東国下向の條に於ては、頼朝上洛せば、相迎へて一矢を射るべきこと素より申す所なり。
而るに已に以て數萬の
精兵(せいへい)を差し、上洛を企てる(その身上らず)と云々。
仍て相防がんため下向せんとす。
更に驚き思し食すべからず。

(そもそも)
君を具し奉り、戦場に臨むべきこと、議し申す旨聞し食す、返す返す恐れ申す。
極まり無き無實なり云々(已上義仲の申状)。

(法皇側近)
帰り参り、このことを申さんとする處、御行法の間に依り申し入ること能わず。
然る間、義仲重ねて使者を以て
(法皇側近)の許に示し送りて云わく、猶々(ゆうゆう)関東
御幸の條、殊に恐れ申す。早く執奏の人を承るべしと云々。
件の事、昨日行家以下一族源氏等義仲の宅に会合し議定の間、法皇を具し奉るべきこと、
その議出で來たる。
而るに行家
(左少辧)等、一切そのようなことをしてはいけない。
若しこの儀をなさば、
違背(いはい)すべきこと、執論の間、その事を遂げず、件の子細を以て、
行家天聴に密達せしめると云々。
義仲無實を申す。
定めて以て
詐偽(さぎ)か。
恐る恐るとなし、兼ねて又義仲殊に申請の事ありと云々。
頼朝を討つべきこと、一行の證文を賜わり、東国の郎徒に見せんと欲すと云々。
この事已に大事なり。
左右すること能わずと云々。
又伝へ聞く、平氏の党類、九国を出で四国に向う間、甚だ
尫弱(おうじゃく)、而るに、今度官軍
敗績の間、平氏その
(もろもろ)を得て、勢甚だ強盛、今に於ては()進伐(しんばつ)を得
べからずと云々。
而るに義仲等甚だ安平のことを称す。これ又
偽言(ぎげん)と云々。
天下の滅亡只今來月にあるか。


二十一日
(みずのえ)午。雨降る。
義仲の所望の両條、頼朝を討つべきこと、御教書を申し賜う事、並びに宣旨の趣、御定にあらず。
()れは、奉行の人、(いささ)勘發(渙發)(過失を責めること)あるべき條、共に以て許さずと云々。
この上今一重
(へん)(えん)(ものに縋ってよじ登ること)せしめるかと云々。
凡そこの両條の望み、
(はなは)だ以て不当、許容無き條、尤もその謂われあるか。
或は云わく、平氏已に
備前国(岡山県南東部)に來たる。
凡そ
美作(岡山北部)以西、併しながら平氏に(なび)き終んぬ。
殆ど
播磨(兵庫南西部)に及ぶと云々。
疑うことは、若し義仲平氏と同意かと云々。
又云わく、
基家(参議右京太夫)卿逐電(逃げる)すと云々。
(大納言平)(むこ)たるに依り、義仲意趣ありと云々。
その事を恐れ隠居せしめるか。


二十二日
(みずのと)未。天晴。
伝へ聞く、今日義仲院に参る。
又聞く、頼朝の使伊勢国に來たると雖も、謀叛の儀にあらず、先日の宣旨に云わく、
東海東山道等の庄土、服せざる輩あれば、頼朝に触れ沙汰を致すべしと云々。
仍てその宣旨を施行のため、且つは国中に仰せ知らしめんため、使者を遣わす所なりと云々。
而して国民等義仲の郎徒等の暴虐を
(にく)み、事を頼朝の使に寄せ、鈴鹿山を切り塞ぎ、
義仲行家等の郎従を射終んぬと云々。
これに因り義仲郎従等を伊勢国に遣わし畢んぬ。
今日家の重書等山上に遣わし終んぬ。
法印(慈圓)無動(東塔無動寺谷)の房なり。


二十三日
(きのえ)申。天晴。
早旦人告ぐ、今夕明旦の間、法皇南都に幸すべしと云々。
疑うらくは吉野に引き籠り給うべきか。但し未だ
一定(いちじょう)ならずと云々。
の刻(午前10時)観性法橋(上人)來たりて云わく、少将(藤原)公衡(きみひら
・大宮
權亮(ごんすけ)(一條)保(よしやす頼朝妹の夫なり)の縁に依り、
(すこぶ)
る恐れを爲すと云々。
の刻(正午)(法皇側近)法印來たり語りて云わく、去夜義仲院に参り、
(法皇側近)
(大蔵卿院の近臣高階)等を以て(つたえ)(もう)すと云々。
その申状に云わく、先ず院を取り奉り、北陸に引き籠るべきこと
風聞(ふうぶん)する。
以ての外の無實、極まり無き恐れなり。
この事、相伴う所の源氏等(行家已下を指す)、執奏する所か。
返す返す恐れ申す。
早く證人を承るべきなりと云々。
次に平氏当時追討使無し。
尤も不便。

三郎
(帯刀)先生義(美乃守源)
を以て討たしめんと欲す。
又平氏の入洛を恐れるに依り、院中の
緇素(しそ)、洛下の貴賎、資財を運び妻子を(かく)す、
(はなは)だ穏便ならず。
早く御制止あるべし。
この三ケ條なりと云々。
仰せて云わく、先ず院を取り奉るべき條、全く源氏等の執奏にあらず。
只只世間
(あまね)く申す事に依り聞し食す所なり。
然れども全く御信用無きを以て沙汰に及ばずと云々。
次に義広追討使の事仰せられると雖も、頼朝殊に意趣を存ずる者か云々といえり。

静賢
(法皇側近)
又云わく、(まこと)にも院を具し奉るべき事は、必ずしもしなければならない事か。
事の理無く又その要無き事なり。
只毎事
忿怨(ふんえん)を許さざる間、若し北陸に逃げ籠るか、その時意趣を存ずる輩、
武士と云い、院の近臣と云い、自ら怨みを報ずるか。
然らば定めて
物騒(ものさわが)しきかと云々(武士の中には、葦敷(あじき)重隆(佐渡守)
殊に意趣を結ぶと云々。
又院の近臣
(大蔵卿高階)の如き、同じく内々相怨むと云々)。
然りと雖も、その恐れ他人に及ばざるかと云々。
又云わく、かの宣旨の趣の事、
定長(右衛門權佐)宜を伝へ、兼光(左中辧)宣下すと云々。
兼光に問わる處、即ち改め直し終んぬ。
而るに直さざる以前の宣旨を以て聞き及ぶか。
全く用いられてはいけない事なり。
そのことを以て義仲に仰せられるべきこと、
兼光(左中辧)申すと云々。
(やや)
久しくありて帰り出で終んぬ。
伝へ聞く、
攝政(基通)愛物母堂(ぼどう)等、昨日の暁鞍馬の方へ遣わし終んぬと云々。
又入道
関白(基房)の家中(はなは)だ以て鼓騒すると云々。
又聞く、義仲の郎従等、多く伊勢国美濃国等に遣わし了り、京中無勢と云々。
平氏再び繁昌すべきこと、衆人の夢想等ありと云々。

範季
(院臣陪膳)
申して云わく、昨日義仲に謁見する。
申状の如くは、謀叛の義無しと云々。
夜に入り
(宰相中将)卿來たる。
世上院中の事等を談ず。
南都臨幸の事、未だ聞き及ばずと云々。


二十四日(きのと)酉。天晴。
伝へ聞く、義仲重ねて院に申して日わく、

(帯刀先生美乃守源)
を以て平氏を追討すべきこと、申請許さざる條、未だその意を得ず、
()げて義広を遣わさんと欲す。
兼ねて又
備後国(広島県東部)をかの義広に賜い、その勢を以て平氏を討つべしと云々。
仰せて云わく、全く許さざる儀にあらず。
件の男
尫弱(おうじゃく)のことを聞し食す。
仍て叶ってはいけないこと思し食し、故に左右を仰せられるなり。
而れども猶宜しかるべきこと、計らい申せば、異議に及ぶべからずと云々。
国事亦聞し食し終んぬ。
但し
(たちま)ちに宰吏(さいり)を任ぜられるべからずと云々。
奈良
僧正(信圓)札を送りて云わく、院より密々召しあり。
仍て明日
白地(あからさま)に上洛すべしと云々。


二十五日
(ひのえ)戌。天晴。
この日鳳笙二管を賀茂社(上下各一管)に奉り、琵琶一面を春日社に奉り、竜笛一管を
熊野に奉る(但し智詮阿閤梨に預け給い、後日参詣の次、若し使に立たしめん時、
進めること仰せ含め終んぬ)。

大将
(良通)
の壽命長遠のための祈禱、兼ねて又天下乱逆の間、一門の家中、安穏太平のためなり。
仍て余及び大将神斎し、
(はらえ)を修す(先ず浴する常の如し)。
夜に入り方違えにより堂に向う。
この夜奈良
僧正(信圓)上洛すると云々。
伝へ聞く、頼朝相模の鎌倉の城を起ち、蹔く
遠江国(静岡県西部)に住するべし。
ここを以て
精兵(せいへい)五萬騎(北陸一萬、東山一萬、東海二萬、南海一萬)、義仲等を討つべし。
その事を沙汰せしめんためと云々。
須らくその身参洛すべき處、奥州
秀平(鎮守府将軍)又數萬の勢を率し、已に
白川関
(奥羽三関の一つ)(東山道)(入口)
ずと云々。
仍てかれの襲來を疑い中途に逗留し、形勢を伺うべしと云々。
去る五日城に赴くと云々。


二十六日
(ひのと)亥。天晴。
今日終日
師量(しりょう)の文書等を見、沙汰せしめる。
伝へ聞く、義仲平氏を討つべきこと、院宣あり。

(ねが)
いに領状(りょうじょう)すると云々。
又聞く、義仲興福寺の衆徒に触れて云わく、頼朝を討たんため関東に赴くべし。
相伴うべしと云々。
衆徒承引せずと云々。
夜に入り帰宅する。
この日五位蔵人
(左衛門皇后宮大進)(良通)を催して云わく、朔旦の日必ず出仕すべしといえり。
承り了ることを申すと云々。
この夜大将
中将(良經)竊に詩あり。無事他聞すべからずと云々。


二十七日
(つちのえ)子。天晴。
夜に入り或者來たりて云わく(源氏の武者なり。源義兼
石川(河内源氏本拠地)判官代と号す。
兵衛尉(えもんじょう)義時(八幡太郎義家五男)の孫、判官代義基の子なり)、平氏を討たんため、
行家來月一日進發すべし。
かれに伴わんため明日先ず河内の所領に向うべしと云々。
その次に語りて云わく、義仲と行家と已に以て不和、果して以て不快出で來たるか。
返す返す不便と云々。
その不和のこと緒は、義仲関東に向う間、相伴うべきこと行家に触る。
行家
遁辞(とんじ)言い逃れる)の間、日來頗る快からざる上、この両三日殊に以て嗷々(ごうごう)
然る間行家來月朔日必定下向。
義仲又その功を行家に奪われざるため、相具し下向すべきこと
風聞(ふうぶん)すると云々。
只今の如くは、外相悪しからずと雖も、その實必ず相互に
(げき)を指すかと云々。
又云わく、行家に於ては、頼朝と立ち合うてはいけないこと、内々議せしめると云々。


二十八日
(つちのと)丑。
伝へ聞く、行宮義仲等、征代了り下向、來月一日御衰日たるに依り(院)、延引、或説に二日、
或は八日と云々。


壽永二年(1183)

十一月

一日(かのと)卯。天陰る。時々小雨。但し衣を湿すに及ばず。
この日、
(さくたん)冬至なり。
即位已前たるに依り、南殿に出御せず。
賀表(がひょう)(もう)し、御暦を付し、内侍所の杖座(じょうざ)に於て(うたげ)を設ける。
偏に
(898~901)の例に依り、行われる所なり。
大臣(經宗)次第を造進し、件の次第、当座賀表署を加えるべきことを作り記載せられる。
(すこぶ)る非なり。
大外記
頼業(よりなり)の申すに依り、その儀を変ず。
兼ねて公卿の判を取り、今日巳
(午前)(10時)史生(主典の次官)賀表を持ち來たり、
頼業(大外記)書札を相副へ、内々示し送りて日わく、昨日攝政(基通)の御判を申す間、
日曛
(ひくれ)
終んぬ。
(良通)大将(16歳・長男)殿の御判同じく申請すべしと云々。
余及び大将共に名二字を書き(大臣と雖も名を書く例なり)、返し遣わし終んぬ。
件の表の最末、参議の名の下、等言の字無し。寛治二年沙汰ありて止められ終んぬ。
(つぶさ)さに堀川左大臣(俊房)記に見ゆ。以往の例或はこれあり或はこれ無し。
(午後2時)大将(良通)参内する(蒔絵の劔、紺地の平緒(飾り太刀をげる帯))。
(午後)(10時)帰り來たり今日の次第を語る。具さに大将の記にあり。
(午後)(4時)、左大臣(經宗)参陣。
先ず大外記頼業を召し、賀表の案
()き立つべきことを仰せられる。
頼業
(大外記)
申して云わく、表の函を持参せし間、途中に於て泥中に堕し入れ破損し(なくし)終んぬ。
修理を加える間遅々すると云々。
大臣奉行の
職事(しきじ)を召し、(左衛門)(皇后宮大進)尋ね沙汰すべきことを仰す。
即ち史生二人陣座下戸邊に舁き立て、次に外記二人これを舁き、陣の小庭中門及び対の
南庭等を經て、軒廊の西間(
()べて二間なり)に立つ。
次に大臣官人を以て内侍候うや否やを
職事(しきじ)に問う。
帰り來たり儲け候うことを申す。
次に
左大臣(藤原經宗)已下座を起ち東の対の南庭に列立す(大臣、納言、参議各一列、
北上西面に立つ常の如し)。
次に大臣案の東頭に就き(この間内侍東階上に出で居る。大臣内侍の出ずるるを待ち
進めるべきか。而るに
(すこぶ)る早く進むと云々。
但し
永承(1046~53)延久(1113~18)等又かくの如しと云々)、(ひざまず)き笏を()
起ちて表の函を取る(花足を取らず。
(そもそも)、或は跪きながら函を取り、或は起ち函を取る。
共にその例ありと云々)。
案の北を經て東階二級を昇り、立ちながら函を内侍に授け、左廻り案の北を經て本の
列に立ち、
(ゆう)し後に更に揖し、左廻り納言の列前を經て退下するなり。
次に或は左廻り、或は右廻り(
大将(良通)左廻り、余示す所なり)、各後列の前を經て退くなり。
又本所に帰り入り出ずるる間、陣座に復す。大臣早く以て退出し、
親卿()上首となる。
()奥座に來たり、出御あるべからず、例に依り行うべきことを仰す。
忠親奥座にありながら、官人を召し右中辧召すべきことを仰す。
即ち
(右中)朝臣(装束司)奥座に來たり、忠親饗を(たくわ)えるべきことを仰す。
次に公卿等暫く座を起ち陣座の下の馬道邊を徘徊す。
次に饗を居う。

()大臣(經宗)
の次第に依り飯を(たくわ)えず。
追って居うべしと云々。
而るに忠親猶先ず居うべきことを仰す。
仍て先ずこれを居うと云々。
居え
(おわ)光雅(右中)忠親()に触る。
即ち公卿安座に着く(
忠親(堀川大納言)端に着く。
大将奥に着く。
自余相分れ、対座に着くと云々)。
次に一献(
光雅(右中))、次に二献(重綱(少納言))、次に三献((左少辧源))。
皆座の下方よりこれを勧める。
二献汁を居え、左大辧經方申し上げ、各箸を下す恒の如し(元上に居えず。上卿の命に
依り一両人の前にこれを居う。皆居えずと云々)。
次に外記進みて御暦
(もう)し候うことを申す。
上卿これに
(めくばせ)す。
外記
称唯(いしょう)する(「おお」と)(答え)見参(げんざん)を持参すべきことを仰す。
次に見参禄法を杖に挿しこれを進める。

忠親
()
座の上方(南所の儀の如し)に向い文を見る。
忠親(堀川大納言)外記に問いて云わく、非侍従の見参無し如何。
外記退き帰り
頼業(大外記)に問今帰り來たり申して云わく、冬至、非侍従の見参無し。
先例なり。

忠親
(堀川大納言)(あや)
しむ色ありと雖も、重ねて仰せず。
弓場に進みこれを
(もう)す。
帰り來たり御暦の奏、内侍所に付くべきことを外記に仰す。
官人を以て少納言頼房を召し見参を給う(外記退下、少納言未だ参らざる間、見参
(ろく)法を
取り分けると云々)。
辧兼忠を召し禄法を給う。
後上下退出すると云々。
今日大将龍顔を拝し奉る(事未だ始めざる以前、御所に参ると云々)。
御歳四歳、然れども成人の量ありと云々。
言語分明、敢えて面嫌いし給わずと云々(已上、大将の口状を以てこれを記す。定めて僻事あらんか)。

  一当座賀表署を加えるべきこと、必ずしもしなければならない事、正暦・長和・長元・永承
・延久・寛治・大治・久安(已上皆兼日これを加える)。

   嘉承(当座加署、堀河左大臣(俊房)記に云わく、加署の事兼日の事なり。
而して今度日蝕の現否に依り、賀表の有無を定めるべし。
而るに現ぜざるに依り、
(たちま)ちにこの儀あり。
事卒爾の間、当座に加署する所なりと云々)。
   長寛(指したる故實無く、こと緒を知らず。偏に嘉承の例当時
大臣(經宗)
(時に右大臣)行わる所なり)。

   今度偏に嘉承長寛の例に就き、この儀を存ぜられるか。
而るに大外記頼業申し改め終んぬ。
就中、下官所労に依り出仕すべからず。
若し必ず当座加署すべくは、左大臣の判を取る後余の亭に持参すべきか。
(はなは)だ便宜無きか。又障り無き大臣、加署せざる例、未だ曾てあらざるなり。
仍て
旁々(かたがた)当座加署の儀、しなければならないこと、先日頼業(大外記)示す所なり。
又長元久安他の事に依り(陣の定め等)、公卿参陣の日、兼日賀表署を取ると云々。
この外皆里第を持ち廻る所なり。

一公卿参列の時、陣座に出ずるる間の説々の事、大内の陣座五間なり。
西一間大将の座と称し人着かず。
第二間一位大臣の座、第三間二位大臣並びに大納言の座、第四間中納言並びに
参議の座、第五間は造合いの間なり。
然して参議の座当時第五間にあり。
これ自然にその座を敷き出すなり。
正法にあらず。
然れば出入の路に用いるべからずと云々。
凡そ出入の間両説あるなり。

一説、一位大臣、西第二間東邊(ひがしあたり)より出ずる。

     二位大臣、第三間の西頭(にしがしら)より出ずる。

     大納言、同間の東邊より出ずる。

     中納言、第四間の西邊より出ずる。

     参議、同間の東頭(ひがしがしら)より出ずる。

 これわが座の当間より出ずるる儀なり。
京極大殿この義を存ぜしめ給ふ。
 又寛治二年匡房記、これを以て是と爲す。

一説、大臣一位二位を論ぜず。西第三間の西頭より出ずる。

 已下同前。

   これ長和(1012~17)御堂(
)
嘉承(1106~08)の堀河左
大臣
(俊房)
等の例なり。
各一院大臣たりと雖も、猶二位
大臣の路を用うるなり。
嘉承に於ては、里内たりと雖も、
准じてこれを知るなり。
又かの記、かくの如きそのなり。

里内裏、間數縮むに依り、宜し
きに随い相計らうべきか。
延久(1069~74)(高陽院)、(1087~94)(堀川院)、共に仗座四間なり。
仍て両度共第一間を置き、残り三間を以て路と爲す(今一間縮めるに依り、
作合いの間を置かざるなり)。
各失礼違乱等ありと雖も(具さに江記に見ゆ)、大概かくの如きなり。
今度仗座只三間、仍て今一重新儀なり。
人々の所存兼ねて以て不審の處、案の如く不同等ありと云々。

今度の路かくの如し。
大臣(經宗)の路、尤も愚案に(そむ)く。
里内の儀
(しゅしゅ・進歩がない)すべからずと雖も、猶道理に依るべきか。
大臣(經宗)須らく西一間の東頭より出ずるべきなり。
間數少きに依り、一間を置くに及ばずと雖も、猶西頭を避けるべきなり。
但し定めて存ぜられる所あるか。
この陣座大将の座を敷かず。
仍てその所を置くてはいけない故か。
この條そのようなことをしてはいけない。
凡そわが座の次の間(大内の儀、一位大臣、西第三間の西頭より出ずる。
即ち長和元年の例これなり)を用うる説ありと雖も、未だわが座上の間より經る例を聞かず。
若し又一位二位を分別せざる説に就き、大臣偏に第三間の西頭を用うべきことを存ずるか。
仍て余の分西のニケ間を
()て、東三ケ間を以て当時の仗座(陣座)に准じ、第三間に
於ては、造合いの間に准じ、一切路に用うてはいけない儀か。
これ又
延久(1069~74)寛治(1087~94)嘉承(1106~08)等の里内の例に(そむ)き訖んぬ。
(かたはら)その心を得ざるものなり。
次に
忠親(納言)卿第二間東邊を用うる條、これ愚意の所存に本づくなり。
尤も道理に叶う。
但し
大臣(經宗)の所爲不当と雖も、第一間の西頭を用いられるは、随って又大納言
第二間の西頭を出ずるべきなり。
一道を置かざる説(大臣に於ては一位二位を分けざる儀なり)ありと雖も、未だ二路を置く例を聞かず。

忠親
(納言)
の所存、只大臣(經宗)の非道を(ただ)し、わが正路を顕さしむる(こころ)か。
凡そ大内に於ては、所の便宜と云い、人の作法と云い、式法已に定まり、是非分明。
仍て必ず上臈の
(あやまち)に随はず。
これ例なり。
里内に於ては、准じてこれを用ふる間、
(いこうかくい)なり、一定(いちじょう)を存じ難きか。
(あなが)ちに上の失を正す、甘心(かんしん)せざる所なり。
大将に於ては、
忠親(堀川大納言)の作法、余の教ふる所に叶ふ。
仍てその跡を遂げ終んぬと云々。
後代のため
(いささ)か仔細を()すのみ。

一公卿列立の所の事、

 里内の儀、延久(1069~74)の古記の如くは、上首西巽角に当り立つか(東礼儀坤角なり)。
(1087~94)堀川(俊房)左府(左大臣)記の如きは、西対東簀子(すのこ)と平順に立つと
云々(江記准じて云わく、猶東に達すべし。
軒廊に当るべしと云々)。
今度東対西一間の東程に当り立つと云々。
かの両度の例に相違する如何。
但し軒廊の南庭、
(すこぶ)る水石ある故か。
然れども上首の立つ所を妨ぐに及ばざるなり。

一退下の時左右に廻る事、

 里内の時、先々人々疑いを持つ所なり。
然れども右廻り(西礼の時左廻りなり)たるべきこと、古賢議定し了る。

永承
(1046~53)
土記、宇治(藤原長者1098~121)殿(忠實)の仰せ又かくの如し((藤原長者)
二條(1064~75)関白(教通)
、堀川左府と相違あるか。
而るに
大二(藤原長者1075~94)殿(師實)の説、是たること宇治殿仰せあり)。
延久
(1069~74)
京極大殿(師實)、寛治堀河左大臣(俊房)、皆以てかくの如きなり。
仍て今度又異議あるてはいけないか。而るに愚案右廻りの條、猶甘心せざる所なり。
凡そ殊に口伝秘説等の事あるに於ては、その
(ことわり)不当と雖も、末世の進退に能はず。
只訓説を守る。
これ故實なり。
かくの如き便に依るべき作法に至り、只人の意に随うべきか。
仍て左廻りすべきこと、
右大将()に含め終んぬ。
而るに左大臣又左廻りすると云々。

忠親
(納言)
に於ては、先例を存じ右廻りすると云々。
凡そ右廻りを執る故は、御所方を廻ることの義なり。
而るに
(つらつら)愚案を加えるに、節会の時、端座に着く人、退下の時は右廻りする。
これ便宜に随い、御所方を廻らず。又内辧
東階(ひがしきざはし)の下に於て下名を給う。
退下の時左廻りする。これ又便宜に随い、御所に依らず。就中、この例北上西面、
御所
(いぬい)(北西)に当る。退下の路、各後列の前を經て、遥に南に行く。
然れば則ち退下の便に付き、左廻りの條、全く御所当時の進退に
(そむ)くにあらず、
(もっと)も穏便なり。
(あなが)
ちに右廻りすると雖も、常に行く間御所に(そむ)く條、只同前なり。
直に東に退けば、右廻り然るべし。
更に南に廻るに於ては、右廻り殊にその便を失うものなり。
古賢の一言と雖も、この條に至りては、何ぞ強ちに規模となさんや。

加之
(くわえて)
永承(1046~53)土記の意、深く了簡を加へ、(ほぼ)愚案に叶ふ。
後人かの記を披き、深き案を加えるべきか。

一南殿御装束の事、

 南殿に出御せず、已に旬の儀無し。
南殿の装束、曾て尋常の義に替るてはいけないか。
暦るに今度御簾を懸けられると云々。
未だその意を得ざるのみ。

已上五ケ條、愚意に任せこれを注し置く。
已に邂逅(かいこう)の事たり。
仍て子孫たる輩、この趣を見て、用捨せしめんためなり。
公事の習い、先例を失わず。
道理を破らず、これを以て礼を知ると謂うべきなり。
今度、賀表作者、式部大輔俊經卿、清書左中辧光雅朝臣、料紙
大臣(經宗)下給、
白色紙(これを。折らず)。
この日、義仲行家等平氏を討たんため
首途(しゅと・出)すべしと雖も、(たちま)ちに以て延引する。
院の御
たるに依りてなりと云々。
來たる八日進發すべしと云々。
(そもそも)、朔旦出御せざる例(元年(898)、こと緒を知らず、長和元年(1012)
嘉承二年
(1107)
、已上亮闇(喪に服す期間)なり)。


二日
(みずのえ)辰。天晴。
伝へ聞く、頼朝去月五日鎌倉の城を出で、已に京上り旅館に宿すこと三ケ夜に及ぶ。
而るに
頼盛卿(大納言平)の行き向い議定あり、粮料(かて)(まぐさ)等叶うてはいけないに依り(たちま)ちに上洛を停止し、本城に帰り入り終んぬ。その替り九郎御曹司(誰人や尋ね聞くべし)を出立し、已に上洛すると云々。或人云わく、今日義仲院に参ると云々。


四日
(きのえ)午。天晴。
伝へ聞く、頼朝上洛
決定(けつじょう)()まり終んぬ。代官入京なり。
今朝と云々。
今日
布和(不破関)に着くと云々。
先ず事のことを
(もう)し、御(さだめ)に随い参洛すべし。
義仲行家等相防ぐに於ては、
(道理)に任せ合戦すべし。
然らずば、
過平(平氏のあやまち)の事あるべからざること仰せ合わすと云々。
又聞く、平氏
一定(しかとして)讃岐国にありと云々。
この日
隆職(大夫史)宿禰(すくね)來たる。


五日
(きのと)未。天晴。
春日社
(春日大社)
奉幣(ほうへい)例の如し。
陪膳
季長(すえなが)朝臣奉行、同行神斎に依り御堂に参らず。
弥勒講例の如しと云々。
伝へ聞く、來たる八日行家鎮西に下向
一定(いちじょう)、義仲下向する。
頼朝の
軍兵(ぐんぴょう)と雌雄を決すべしと云々。


七日
(ひのと)酉。天陰る。晩に及び雨下る。
伝へ聞く、義仲征伐せられるべきことにより、殊に用心
(うつねん)の余り、かくの如く
承り及ぶこと、院に申さしむと云々。
仍て院中の警固の武士に入れられ申し終んぬと云々。
行家已下、皆悉くその宿直を勤仕する。
而るに義仲一人その人數に漏ること、殊に奇と爲す上、又中言の者あるか。
行家明タ必定下向と云々。頼朝代官今日
江州(滋賀県)に着くと云々。
その勢僅に五六百騎と云々。

(たちま)
ちに合戦の儀を存ぜず。
只物を院に供せんための使と云々。
次官
親能(少将(ひろすえ)の子)并に頼朝の弟(九郎)等上洛すると云々。
この日
梅宮祭(梅宮大社の祭)(へい)河原より立て終んぬ。
旅中に依りてなり。
今日又御返礼あり。
(めいかん)これを言うなかるべし。
但し謁見の事、猶難渋あるか。
成長(西行)法師の文等、遣わし召し終んぬ(八幡(岩清水)に召す)。
夜に入り持ち來たる。
然れども今夜これを開かず。
成長法師猶宿し候う。


八日
(つちのえ)戌。天晴。
今日、備前守源行家、平氏迫討のため進發す。
見物者語りて云わく、その勢二百七十余騎と云々。
(はなは)だ少しと爲す如何如何。
今日義仲已に打立ち、只今
亂逢(らんほう)の事の如し。
院中已下京都の諸人、毎家鼓騒す。
(そもそも)、神鏡、劔璽、無事迎へ取り奉る條、朝家第一の大事なり。
而るに君臣共にこの沙汰無し。
仍て余
(ひそか)にこの趣を以て行家に含め終んぬ(全く親睦の縁無し。
然れども偏に
社稷(しゃしょく)を思うに依り、或僧を招き(つぶ)さに以て聞達(ぶんたつ)し終んぬ。
中心の誓い、上天
(かんが)みるべきのみ)。


十日
(かのえ)子。天陰る。午後雨下る。
方違えに依り堂に宿る。
この日、
蓮華王院(三十三)内の北斗堂の供養なり。
權中納言頼實卿已下公卿五六人
直衣(のうし)を着け参入す。
殿上人束帯すと云々。
伝へ聞く、頼朝の使供物に於ては
江州(滋賀県)に着き終んぬ。
九郎猶近江にありと云々。
(ちょうけん)法印(権大僧都)を以て御使となし、義仲の許に遣わし頼朝の使の入京、
(ふさぎ)存すてはいけないことと云々。
悦ばざる色ありと雖も、
(すく)いに領状(りょうじょう・承諾)か
勢無きに於ては、強ちに相防ぐてはいけないこと申さしむと云々。

十三日(みずのと)卯。雨下る。
(すえつね)
朝臣來たり語りて云わく、院の()官康貞、一昨日上洛すると云々。
(ちまた)
の説に云わく、秀平(鎮守府将軍奥州藤原三代)頼朝を追討すべきこと、院宣あ
る旨、義仲
秀平の許に示し遣わし、秀平件の證文を以て康貞に付き巡覧し終んぬと云々。
但しこの條定めて
浮説(ふせつ)かと云々。
追ってこれを尋ね聞くべし。
行家鳥羽を起ち終んぬと云々。


十四日
(きのえ)辰。天晴。
大外記
頼業(60代後)來たる。
大将
(良通・長男・17)中将(良經・次男・15)
両息共に尚書(書經)頼業(大外)に受け始める。
これ
兼日(兼日)の支度にあらず、(おり)に臨み思い立つ所なり。
頼業
(大外記)
明經道に於て上古の名士に恥じざるなり。
仍てその説を受け習わしめんためなり。
(午後4時)頭辧兼光(左中辧)院の御使となり來たる。
簾前に召しこれに謁見する(普通の礼、貫首上長押の上に招くべし。
然れども
兼光(左中辧)家司(けいし)たるに依り、その礼を正しくせざるのみ)。
(おお)せて云わく、神鏡劔璽、城を出で外にあり。
わが朝の大事、これに過ぎたるなし。
仍て
(こころ)みに御使を遣わし、誘うに勅命を以てする如何。
この事天下変ありし時、人々
議奏(ぎそう)し、(かね)てその沙汰ありと雖も、自然に
旬月
(しゅんげつ僅かの間)を送る

而るに去る九月の
(ころ)、前大臣(平宗盛)書を法皇に上る。
その状に云わく、臣に於て全く君に背き奉るの意無し。
事図らざるに出で、周章の間、
旧主(安徳帝)に於ては、(しば)らく当時の乱を
(のが)
れんため、具し奉り外土(げど)蒙塵(もうじん)し終んぬ。
然れどもこの上の事、偏に勅定に任すべしと云々。
この状の如くは、弥々和親の義を表し、かの三神を迎へ奉らるべきか。
而るに義仲追討の時、官軍
敗績(はいせき)し、この時に臨み、御使を遣わざるは、
邊民(辺境の民)の愚、恐らく士卒の尫弱詔諛(おうじゃくしょうゆ)に依ることを存ずるか。
この條如何。
能く思量し計らい
(もう)すべしといえり。
申して云わく、この事
旧主(安徳帝)蒙塵の(とき)、速にこの儀あるべし。
而るに延びて今に及ぶ。
懈緩(けかん・おこたる)の條、悔いて益無し。況んやかの漏達の趣あるに於てをや。
御使を遣わされる條、異議に及ぶべからず。
(そもそも)かの報奏(ほうそう)の旨、
密にして予議あるべし。
遠境の間、御使更に帰参の後、重ねてその儀あれば、
擁怠(ようだい・いだきおこたる)の
自ら
変易(へんやく)あるか。
仍て智慮の及ぶ所、
(しかれど)も議定あり、御使に含められるべきなりといえり。
兼光(左中辧)云わく、攝政(基通)申されて云わく、御使の上、手跡(しゅせき)を以て
女院
(建礼門院)
(たてまつ)られるべし。
疑殆
(ぎたい)
を避けんためなり。左府(經宗)申されて云わく、御使二人あるべきなりと云々。
余云わく、この儀共に然るべし。

(そもそも)
器量を撰び、その人を献られるべしといえリ。
兼光(左中辧)退き帰り終んぬ。


十五日
(きのと)已。天晴。
晩に及び宰相
中将(定能)來たり、院中の事を語る。武士の守護、逐日(ちくじつ)(おこたら)ずと云々。
院中の上下、或は受けず。
或は甘心し、
両様(義仲・行家)と云々。
又云わく、頼朝代官九郎、入洛すべきや否や、
(すこぶ)る予議あり。
大略進らす所の物并に使者等、帰国すべき様、その沙汰あり。
然る間又議出で來たり、澄憲を以て重ねて義仲の許に仰せ遣わされる處、
その勢幾ばくならずは、入京を許されるべきこと、
(ねが)いに承伏すと云々。
又云わく、只今
(さかんだいかげよし)來たり入る(頼朝の許に遣わされる御使なり)。
この一両日入洛すると云々。
仍て頼朝の報奏の趣を問う處、大略御返事を申すに及ばず、専ら悦ばざる色あり。
仔細に於ては、始めの御使に(廳官康直)申し終んぬ。
今の仰せ只同前なり。
早く帰参すべしと云々。
敢えて
饗応(きょうおう)の気無く、殆ど(はんりょく・ねじれ)と謂うべきかと云々。


十七日
(ひのと)未。雨下る。
平旦人告げて云わく、院中武士群集する、京中騒動と云々。
何事かを知らず。

頃之
(しばらく)
ありて又人云わく、義仲院の御所を襲うべきこと、院中に風聞する。
又院より義仲を討たるべきことかの家に伝へ聞く。
両方
偽詐(いつわり)を以て告げ言う者あるか。
かくの如き
浮説(うわさ)に依り、かれこれ蚊騒(かそう)す。
敢えて云うべからずと云々。
若し勅命に
(そむ)く者、罪の軽重に随い、罸科に行われるは例なり。
(たと)王化(おうか)に服せざる者ありと雖も、一州を虜領(りょりょう)し、外土(がいど)に引籠る、
(ほぼ)先蹤(せんしょう・先人の足跡)あり。
未だ洛中
咫尺(しせき・近い)の間かくの如き乱あることを聞かず。
この事
(はからい)なり。
義仲
(たちま)ちに国家を危うくし奉るべき理無し。
只君城を構へ兵を集め、
(もろもろ)の心を驚かされる條、専ら至愚の(まつりごと)なり。
これ小人の
(はからい)より出ずるか。
果して以てこの乱あり。
王事の軽き、是非を諭ずるに足らず。
悲しむべし悲しむべし。
午後に及び
(いささ)(らくきょ・落着く)すと云々。
攝政
(基通)
召しに依り参入し、今夜宿し候わるべしと云々。
これ御吸物たるに依り、殊に召しに応ずるなり。
他の公卿近習、両三輩の外、参入の人無しと云々。

弾指
(だんじ)
すべし弾指すべし。
長方卿(八條中納言)一人参入し、悲泣して退出すと云々。
主典代
(さかんだい)
景宗を以て御使となし義仲に遣わされる。
その状に云わく、謀叛の條、
(あげつら)い申すと雖も、告げ言う人その實を称す。
今に於ては遅れ申すに及ばざるか。
若し事無實ならば、速に勅命に任せ西国に赴き平氏を討つべし。

(たと)
い又院宣に(そむ)き、頼朝の使を防ぐべしと雖も、宣旨を申さず、一身早く向うべきなり。
洛中にありながら、動もすれば
聖聴(せいちょう)を驚し奉り、諸人を騒がしめ、(はなは)だ不当なり。
猶西方に向わず中夏に逗留せば、風聞の説、實に處せられるべきなり。
よく思量し進退すべしと云々。
その
報奏(ほうそう)の趣未だ聞き及ばず。
余使者(国行)を以て院に進めしめ、
定能卿(左近衛中将)に示し送りて云わく、
所労に依り早く参らず、物騒の仔細
(くわ)しく告げ示さるべしと云う。
返事の趣、
大途(おおすじ)風聞の如し。晩に及び左少辧光長來たり語る旨又以て同前なり。
この夜
八條院(暲子内親王)八條殿に(かんぎょ)すると云々。
疑うべくは明暁義仲を攻められるべきかと云々。
左右する能わずと云々。
義仲その勢幾ばくならずと雖も、その
(ともがら)(はなはだ)だ勇と爲すと云々。
京中の征伐、古來聞かず、若し不慮の恐れあれば、後悔如何。
小人等近習の間、遂にこの大事に至る。
君の
(卿・太夫・士)を見ざるの致す所なり。
日本国の有無、一時に決すべきか。
犯過無き身、只佛神に
奉仕(ぶじ)するのみ。


十八日
(つちのえ)申。天晴。
この日
(吉田)(神社)祭なり。
奉幣
(ほうへい)
常の如し。
早旦
大将(良通)を伴い院に参らんとする間、經卿(院近臣大蔵卿高階)奉行となり、
只今参るべき仰せあり。
承り了ることを申す。
即ち相共に院に参る。
時に辰
(午前8時)なり。
泰經卿を以て仰せ下されて云わく、世上
物騒(ものさわが)しく、日を()い倍増す。
然る間浮言多く出で來たり、御所の警固
(道理)に過ぐ。
義仲又命に
(ふく)する(こころ)無きに似たり。
事已に大事に及べり。
仍て昨日
主典代景宗を以て御使となし、仰せられて云わく、征伐のため西国に向うべきこと、
度々仰せ下さる。
而るに今に下向せず。又頼朝の代官を攻めるべきこと申されると云々。
然らば早く行き向うべし。
而るに両方共に
首途(しゅと)せず、已に君に敵せんとする。
その意趣如何。
若し謀叛の儀無くば、早く西海に赴くべしといえり。
義仲報奨して云わく、先ず君に立ち合い奉るべきこと、一切存知せず。
これに因り
度々(たびたび)起請を書き(まい)らせ終んぬ。
今尋ね下さる條、生涯の慶びなり。
西国の下向に於いては、頼朝の代官數萬の勢を引率し、京に入るべし。

()
れば一矢射るべきこと、素より申す所なり。
かれ入れられるべからずは、早く西国に下向すべしと云々。
この上頼朝の代官の事何様に仰せられるべきや。
兼ねて又この騒動に依り、院に行幸あるべきか。
(まさに)(たちまち)にしなければならないか。
これらの條々計らい申さしむべしといえり。
申して云わく、先ず院中御用心の條、
(すこぶ)(道理)に過ぎたり。
これ何故ぞや。
偏に義仲に敵対せられるなり。
(はなはだ)以て見苦しい。
王者の行いにあらず。
若し犯過あれば、只その軽重に任せ刑罰を加へられるべし。
又仰せ下さる如くは、申状
(はなはだ)穏便か。
然らば先ず適切な御使を遣わされ、且つ
(ふげん)の次第を尋問せられ、
且つ所行の不当を勘發せられ、若し告げ言う輩を指し申されば、法に任せ
刑罸に行われるべし。
先ず当時敵対の儀を
()められること(もっと)も宜しきか。
義仲若し理に伏し
和顔(わげん)あれば、何ぞ征伐に赴かざらんか。
(たと)
い罪科あるべしと雖も、出境の後その沙汰あれば、当時の怖畏(ふい)
あるべからざるか。
洛中
咫尺(しせき)の間、君に敵対せられる條、当時後代、(ちょう)の恥辱、国の
瑕瑾(かきん・きず)何事かこれに過ぎんや。
若し又猶勅命を受けるを
(こう)ぜずは、かの時、法に任せ科断(かだん)あるべきか。
今の沙汰の如くは、
王化(おうげ)無きが如し。
甚だ以て見苦しきか。
頼朝の代官の條に於ては、勢少く、入るべき由、義仲申す旨、先日風聞あり。
更に変じ申すべからずか。
又巨多の士卒を率いば、停止すべき由、かの代官に仰せられるべきか。
行幸の條、
(たちま)ちにしなければならないかといえり。
(院近臣蔵卿高階)
御前に参り終んぬ。その後人々多く以て参集し、
左大臣(藤原經宗)巳下、大略残る人無きか。定長卿(右衛門權佐)を以て(しばら)
(うかが)
うべきことを仰せられる。
仍て
祇候(只伺う事)す。
(午後2時)に及び、定能卿(宰相中将)密々來たり告げて云わく、
只今御車を以て密々に行幸なり終んぬ。
(しら)し食さずと云々。
頃之(しばらく)ありて定長(主税頭)來たり問いて云わく、図らざる外行幸あり。
この亭を以て皇居とすべきか。
将に又、猶閉院を以て皇居と爲すべきか、計らい申すべしといえり。
申して云わく、この御所を以て皇居となすは、行幸の條
(はなはだ)奇。
仍て只殿上已下の事、閉院にあるべきかといえり。

定長
(右衛門權佐)
云わく、大臣(經宗)申される旨同前と云々
(左大臣已下の公卿、上達部の座におり。
余早く参る間、寝殿の東北廊にある間、
(ことさ)らにかの座に加わること能はず)。
(午後4時)に及び祗侯する。
殊に尋問せられる事無し。
仍て
(院近臣大蔵卿高階)に触れ退出し終んぬ。
大夫
隆職(小槻たかもと)來たり、余これに謁見する。
隆職の所存余の案の如し。
攝政(基通)今夜より院の御所に参宿せられると云々。
仁和寺宮(守覚法親王)八條宮(圓恵法親王)、鳥羽法印等、皆日來より院中に候わると云々。


十九日己酉。天陰る。時々小雨。
早旦人告げて云わく、義仲已に法皇宮を襲わんとすると云々。
余信受せざる間、
(しばらく)く無言。
(兼實の家司)
を以て院に参らしめ、仔細を尋ねしむ。
(正午)帰り來たり云わく、已に参上のこと、その聞えありと雖も、未だその事實無し。
凡そ院中の勢甚だ少しと爲す。
見る者
興違(こうい)の色ありと云々。
光長
(藤原左少弁)
又來たり、院に(申し)せん(上げる)ため退出し終んぬ。
然れども義仲の軍兵、已に三手に分れ、必定寄せんの風聞、猶信用せざる處、事已に真實なり。
余の
(屋敷)大路の(かみ)たるに依り、大将(良通17歳)の居所に向い終んぬ。
幾程を經たず黒煙天に見ゆ。
これ
河原(河原町)の在家を焼き払うと云々。
又時を作る両度、時に未
(午後2時)なり。
或は云わく、吉時と爲すと云々。
(午後4時)に及び、官軍悉く敗績し、法皇を取り奉り終んぬ。
義仲の士卒等、歓喜限り無し。
即ち法皇を五條東洞院の
攝政(基通)亭に渡し奉り終んぬ。
武士の外、公卿
(じしん)これ矢に(あた)り死傷する者十余人と云々。
夢か夢にあらざるか。

魂魄
(こんぱく)
(死者の霊魂)退散し、萬事不覚。
凡そ漢(官)家本朝天下の乱逆、その數ありと雖も、未だ今度の如き乱あらず。
義仲はこれ天の不徳の君を
(いまし)める使なり。
その身の滅亡、又以て
忽然(こつねん)か。
(ねが)
いに生きてかくの如き事を見る。
宿業(しゅくごう)を恥ずべきものか。
悲しむべし悲しむべし。

攝政
(基通24歳)
未だ合戦せざる前、宇治の方に逃げられ終んぬと云々。
夜に入り
定能卿(宰相中将36歳)(ひそか)に母堂の許に來たる。
即日余の居所の北隣に來たるなり。
今日、
二位中納言兼房(兼実弟元関白忠通の子31歳)院に参り、合戦の間、
雑人のため僕従、乗物等を隔てられ、歩行して迷い出で、当時小屋にあり。
乗物を送るべき由、雑色を以て示し送られる。
仍て牛車等を相具し送り遣わす處、尋ね失い終んぬと云々。
後に聞く、歩行し法性寺の僧都の許に來たると云々。
深更に及び家に帰られ終んぬと云々。
日來却って
籠居(ろうきょ)の人、何故今日院参せられるや、尾寵(びろう・不作法)しき、
嗚呼と謂うべきなり。
定めて天下の沙汰となるか。
主上(後鳥羽天皇4歳)實清卿(大宰大弐)相具し奉ると云々。
未だその御在所を知らずと云々。
今夜大将亭に宿す。


二十日
(かのえ)戌。天晴。
伝へ聞く、入道
関白(基房39歳)去夜より五條亭に参宿し、義仲迎へに(よこ)すと云々。
花山
大納言(兼雅36歳)日野の方に逃げ向うと云々。
或人云わく
()(まさかた右近衛中将)搦め取られ終んぬ。
( 源)資時(すけとき左近衛佐 ) 伐ち取られ終んぬと云々。
但し
一定(しかとした)の説を知らず。
後に聞く、両人共に搦め取り武士の許にありと云々。


二十一日
(かのと)亥。天晴。
今日
定能卿(左近衛36歳)院に参り終んぬ。
親信卿(47歳)(かわ)り退出すと云々。
昨日
賢法印(法皇側近60歳)又召しに依り院に参り、見参に入ると云々。
又義仲内々示して云わく、世間の事
松殿(基房39歳)に申し合わせ、毎事
沙汰を致すべしと云々。
(すこぶ)(じょうけん)詳しからざるか。
今日申
(午後4時)攝政(基通)奈良より、前駆六人、共七八入済々(せいせい)たる威光と云々。
愚案ずるに甘心せず、忍びて入京せられるべきか。
余密々に祈請して云わく、今度義仲若し善政を行うならば、余その仁に当る。
この事極りなき不祥なり。
仍て今度の事、その中に入るべからず。
義仲に順うてはいけないこと、
(いささ)か佛神に謝し終んぬ。
言う
(なか)れ言う莫れ。


二十二日
(みずのえ)子。天晴。
朝、大夫史(49歳小槻たかもと)
告げ送りて云わく、
大納言師家(松殿基房3男12歳)内大臣に任じ、攝政たるべき由、仰せ下され終んぬと云々。
昨夜丑
(午前2時)と云々。
晩に及び
隆職(たかもと)來たり語りて云わく、閑院(後鳥羽天皇4歳)におわしますと云々。
今朝新
攝政(師家12歳)に参る人々済々、前攝政(基通)の居所近々、事甚だ掲焉(けちえん)と云々。
余今度の事を免る、第一の岩窟なり。
伝へ聞く、
座主(叡山69歳)合戦の日、その場に於て切り殺され終んぬ。
八條圓恵法親王(後白河法皇皇子32歳)、華山寺邊に於て伐ち取られ終んぬ。
又權中納
言頼實卿(左大臣長子28歳)直垂(ひたたれ)烏帽子(おりえぼし)等を着け逃げ
去る間、武士等卿
(すがた)たることを知らず、引張りて()せんとする處、自らそ
の名を称すと雖も、衣裳の
(てい)尋常の人にあらず、(いつわ)りて(貴い家柄・
血筋
)
を称するなり。
猶頭を打つべき由、各沙汰する間、下男の中、見知る者あり實説のわけを称す。
仍て
(たちま)ちに死を免る。武士等相共に父大臣(左大臣經宗)の許に送ると云々。
大臣憂喜相半ばし、
纒頭(てんどう)(<頭に纏わせるから>褒美)を武士等に与ふと云々。
(そもそも)今度の乱、その(せん)明雲(天台座主圓融)(八條宮法親王)
(ちゅう)
にあり。
未だ貴種高僧のかくの如き難に遭うを聞かず。
佛法のため希代の
瑕瑾(かきん)(きず)たり。
悲しむべし悲しむべし。
又人の運報、誠に測り難き事か。

攝政(近衛基通24歳)
去る七月乱の時、専らその職を去るべき處、法皇の艶気に依り、
動揺無く、今度何の
過怠(かたい)(過失)に依り所職を奪わるや。
入道
関白(基房)の許に、書札を送りその子の吉慶の事を賀す(祝する)。
本意のこと報札あり。
又使者を以て義仲の許に遣わす。
これら当時の害を遁れんためなり。
又聞く、大外記頼業の子直講近業、流矢に
(あた)りて命を失うと云々。
但し未だ
一定(いちじょう)を聞かず。
仍て父真人の許に問い遺わす。
今日訪せず。
但し神斎恒の如し。
殿暦の説に依るなり。


二十七日
(ひのと)巳。
伝へ聞く、平氏室の泊りに付き終んぬと云々。
實否を知らず。
今日宗雅朝臣語る。
攝政(基通)の邊の事、義仲大略所領等の事、相違あるてはいけないことを申すと云々。
然れども、又萬事
松殿()押して沙汰すと云々。
今日
聖人來たる。
伝へ開く、任大臣の事、天下の鼓騒、禅門
(すこぶ)る恥ずる色ありと云々。
礼を前
攝政(基通)の許に送る。この日天下の穢れに依り大原野(おおはらの神社)祭無し。
仍て奉幣行わず。

二十八日(つちのえ)午。天晴。
範光
光長(兼実の家司)
等來たり、世上の事等を語る。
攝政(基通)の家領等、違乱(混乱)あるてはいけない由、義仲本所に示すと云々。
然る間新
攝政(師家)皆悉く下文(かぶん)をなし、八十余所義仲に賜ふと云々。
狂乱の世なり。
伝へ聞く、任大臣の次第、先ず入道
関白(基房)、少将顕家(あきいえ)を以て使となし、
大臣(師家)に触れられると云々。希異の又奇異で更に言語の及ぶ所にあらざるものか。


壽永二年(1183)

十二月大

二日(みずのえ)戌。天晴。
伝へ聞く、義仲使を差し平氏の許に送り(播磨国室の泊りにありと云々)、和親を乞うと云々。
又聞く、去る二十九日平氏行家と合戦し、行家の軍
(たちま)ちに以て敗績し、家子多く以て
伐ち取られ了り、
(たちま)ちに上洛を企つと云々。
又聞く、多田蔵人大夫行綱城内に引籠り義仲の命に従うべからずと云々。


三日
(みずのと)亥。天晴。
伝へ聞く、義仲一所を賜わり、八十六箇所を領すと云々。
又新
攝政(師家)の政所始め去る二十九日と云々。
右中辧光雅執事
家司(けいし)となると云々。
光長
(少弁)()
て置くか如何。
拝賀來たる八日と云々。晩に及び
隆職(大夫)來たる。
前に召し雑事を仰する。


四日
(きのえ)子。天晴。
定能卿
(左近衛中将)
退出し、院より來たり語りて云わく、昨日義仲院に(もう)して
日わく、頼朝代官日來伊勢国にあり。
郎従等を遣わし追い落し終んぬ。
その中宗たる者一人、生きながら
(から)め取り終んぬと云々。
又語りて云わく、院中の警固、近日日來に陪し、女車に至るまで検知を加うと云々。
今日終日經を写す。


五日
(きのと)酉。天晴。
故女院
(皇嘉門院)
の御忌日なり。
早旦大将を伴ない、御墓所に参り、舎利及び昨日書き奉る所の諸の真言并に

壽量品
(法華經
復一巻)等を供養し奉る。
僧三口、事了り布施を引く。
九條の御堂に参る。未
(午後)(2時)に及び、僧徒参入する。
籠僧六口なり(但し忠玄律師参らず。
仍て
闕請(けっせい)一口を(こう)じ加える。
又観明法橋を以て導師と爲す。
上臈たるに依りてなり)。
公卿右
大将(良通)一人なり。
布施取衣冠、但し堂童子無し。
略儀なり。
講演了り、大将披物を取る。
その後弥勒講(三口)、日來の如し。
その後所作少し。
日没に及び退出する。
伝へ聞く、平氏猶室にあり。
南海山陽両道大略平氏に同じ終んぬと云々。
又頼朝平氏と同意すべしと云々。
平氏
(ひそか)に院に(もう)し可許ありと云々。
又義仲使を差し同意すべきわけを平氏に示すと云々。
平氏承引せずと云々。
今日御堂に於て
光長(少弁)語りて云わく、新攝政(師家)の執事親經、年預光雅、
(うまや)上司資泰朝臣と云々。
他事未だ聞かずと云々。又累代の日記等、併しながら
鴨院(忠實邸)にありと云々。


七日
(ひのと)卯。天晴。
早旦
聖人來たる。
相次ぎ
(院の臣手水陪膳)朝臣來たり、世上の事を語る。
平氏
一定(いちじょう)入洛すべき由、能圓法眼告げ送ると云々。
義仲と和平するや否や、未だ事切らずと云々。
今日又中御門大
納言(宗家)來られ、余これに見す。
重喪以後、出仕の後、今日始めて來られるなり。
又五位蔵人親雅來たり、院宣を伝えて云わく、朔旦叙位御即位叙位に合わせ行わんと
欲する處、即位延引する。
これを爲すこと如何といえり。
申して云わく、下名を賜う儀、先例に任せ行わるべくは、正月の叙位に付け行われ、
七日賜うべきなり。
臨時の叙位に准じ、下名を賜う義あるべからずは、歳の内に行わるべきか。
下名の義に依るべきなりといえり。
伝へ聞く、平氏と和平の事、義仲内々骨張すると雖も、外相受けざる由を示すと云々。
晩に及び
宰相(定能)中将告げ送り云わく、來たる十日義仲、法皇を具し奉り、
八幡
(岩清水)
邊に向うべし。
かれより平氏を討たんため西国に赴くべしと云々。
(院ののりすえ)同状を告げ送る。
凡そ左右する能わざる事か。
或は云う、明日
御幸(法皇外出)あるべしと云々。
然れども謬説か。

八日
(つちのえ)辰。天晴。
使者を
(法皇側近)の許に送り、御幸の次第を問う。
返事に云わく、凡そ左右する能わず。

一定
(しかとして)
仰せ下され終んぬ。
今に於ては異義無し。
天下今一重滅亡し終んぬ。
京都又安堵すべからず。
女房等少々、遠所に遣わすべきかと云々。
凡そ京中の上下
周章(あわてふためく)極み無しと云々。
宰相中将(藤原)退出する。
院より御幸に参るべきに依り、出立のため退出する所なり。
件の
相公()の室家、この両三日女院に寄宿せられる。
新御所の北対邊なり。

相公
(定能)
語りて云わく、今旦御トあり。
御幸の吉凶を問わると云々。
不快のことを占い申すと雖も、沙汰に及ばずと云々。
然れば又御トあるてはいけないか。
言うに足らずと云々。
当時の御所五條殿、怪異
(しき)りに示す。
仍て
八條院(暲子内親王)に遷御あらんと欲する處、義仲受けざる間、
(たちま)
ちに八幡(岩清水)御幸の儀出で來終んぬと云々。
凡そ怪異を
()みられる條は、亡ぶ(ごと)き事あるか。
今に於ては、法皇の御身、何によりて惜しみ思し食されるべきか。
弾指すべし弾指すべし。
余の女房、大将の妻等、密々明暁南都に遣わすべき由、内々その沙汰を致す。
然れども事猶穏便ならず。
仍て院邊に尋ね伺う處、十日の御幸
(すこぶ)る不定。
又公卿等参入し、御幸の事を尋問せられること、
秉燭(へいしょく)以後これを聞き及ぶ。
(たと)い御幸ありと雖も、法皇の外他人参るべからず。
行幸あるべからず。
入道関白(松殿基房)已下、諸卿洛中に留り、萬事沙汰を致すべし。
京都を損亡せざるため、御幸を申し行う由、義仲
(たたえ)せしむと云々。
仍て明晩の下向停止し終んぬ。
且つ又
(ぼくびん)を加うる處、(すこぶ)る快からざる故なり。
又左少辧光長同じく
(たちま)ちにしなければならない由を申すなり。
(午後10時)に及び、或る人告げて云わく、明日延暦寺を攻めるべしと云々。
驚奇極まり無し。
凡そ日來山門衆徒の蜂起、甚だ以て
甘心(かんじん)せられず。
世のため時に訴訟も遺恨もあるべき事なり。
近日の事、只知らざる如く見ざる如くにてあるべき處、大衆蜂起の條、還りて後、
(ちり)の恥と爲すべき所であるか。
当時又この蜂起に依り、寄せ攻められるべしと云々。
誠に
(比叡)の佛法滅盡の期至るか。
悲しむべし悲しむべし。
(刑部)入道今日南都に下向し終んぬ。


九日
(つちのと)巳。天陰り(すこぶ)る風雪。
伝へ聞く、昨日左
大臣(藤原經宗)并に忠(堀川大納言)卿、院に参り、(納言)卿を
以て
大臣(藤原經宗)に問われて云わく、義仲申して云わく、西国を討たんため(まか)
向うべきなり。
而るに法皇御在京、不審無きにあらず。
山門の騒動の由風聞する。
仍て法皇を具し奉り下向せんと欲すと、この事如何。
御トを行わる處、快からざることを申す。
これを爲すこと如何。
大臣(經宗)申して云わく、御占の事沙汰に及ぶべからず。
義仲の申す所然るべし。
早く御幸あるべしと云々。
(法皇)(側近)法印を以て(堀川)(大納言)卿に問わる。
申状
大臣(經宗)に同じ。
但し竊に申して云わく、平氏と和平の儀、義仲に仰せられるべきなりと云々。
然れども、件の事義仲
(はなは)だ請けざる由、外相に表すと云々。
仍て仰せ下さるに及ばずと云々。
而る間、
長方(押小路中納言)卿私に使者を以て義仲に触れて云わく、穢中
八幡
(岩清水)
の御幸如何。
(たと)
い御参社無しと雖も、猶神(おもんばかる)恐れあり。
(はなは)だ以てそのようなことをしてはいけないと云々。
これに因り
忽然(こつぜん)として延引し、穢以後御幸候い給うべき由、定め仰せ
終んぬと云々。
猶、
長方(藤原中納言)賢名の士なり。
今日山の
法印(慈圓)白地(あからさま)に京に下られ、大衆の蜂起(ほうき)()(じょう)と云々。
實に只天台の佛法滅亡すべき時なり。
伝へ聞く、
俊堯(延暦寺)座主に輔せられ終んぬと云々。


十日
(かのえ)午。天晴。
法印
(慈圓)
山上に帰り登られ終んぬ。
百日
(鎮護国家)(祈祷)
入堂(無動寺(叡山東塔)なり)、退転遺恨たるに依り、
隆憲を以て義仲に触れ許しを蒙り登られ終んぬ。
これ又愚身の慶びなり。
昨日京に下りしは、世間の
物忩(ぶっそう)に依り、下官(兼實)の邊の事不審の故に
京に下ると云々。
又山門既に城郭を構う。仍て城中に龍る條、甚だ穏便ならず。
加之(くわえて)、已に山上を攻められるべきことを風聞す。
仍て且つは京に下られるべき由、余示し送る所なり。
而るに山門を追討の儀、又
(たちま)ちにそのようなことをしてはいけないと云々。
仍て義仲に触れられる處、案の如く許しあり。
(たと)い又内心許さざるありと雖も、
この願い已に退き難き故、萬事を顧みず、山に帰り、下官相共によく評議せしむる
ものなり。

山王
(叡山守護神)大師(日吉神社)
知見證明あらんか。
大願の趣、
(つぶさ)さに注録し難きものか。
只佛法の興隆、政道反素の趣なり。

法印
(慈圓)
、下官、観性(法橋)三人の大願、已に年序を積み終んぬ。
今の入堂已にこの事を祈請の故なり。
仍て百千の事顧みず。
(めい)衆に任せ奉るのみ。
この夜臨時の
除目(じもく)を行わる。

 参議藤原俊經、藤原隆房(即ち右兵衛に任ず)、藤原兼光、左大辧兼光、
 左中辧光雅、右中辧行隆、權
(藤原左)(少弁)、左少辧源兼忠、

 右少辧平基親、右中将忠長、義仲()馬頭(まのかみ)を辞退する。

又天台座主(俊堯僧正)を仰せ下さると云々。


十一日
(かのと)未。天晴。
早旦
()示し送りて云わく、無爲無事登山し終んぬ。
夜の内に護摩以下の所作等悉く勤行終んぬ。
悦びを爲すこと少からずと云々。

大衆
(叡山僧兵)
の事義仲に立ち合う義は停止し、座主を用いてはいけない條は
決定(けつじょう)()(じょう)なる(気勢を挙げる)べしと云々。


十三日
(みずのと)酉。陰晴定まらず。時々風吹く。
伝へ聞く、平氏入洛、來たる二十日と云々。
或は又明春と云々。
義仲と和平の事
一定(いちじょう)と云々。


二十七日
(ひのと)亥。
法皇正月十三日天王寺に幸すべしと云々。
この事
(院近臣)(参議)卿及び(平・左)(馬權頭)等、義仲に追従せんため
申し給う所と云々。


二十九日
(つちのと)丑。天晴。
大夫史
(たか)(もと)來たり、世上の事を談ず。
平氏義仲の和平、
一定(いちじょう)の由、(平氏)(坂東)法師(武者別当)の説を
以て聞き終んぬと云々。
今日
和奏(のどか)と云々。
(藤原)大臣(經宗)陣に参り、不堪(ふかん)の定めありと云々。


玉葉 巻第四十

壽永三年春夏
(四月十六日
(きのえ)戌改元、元暦元年と爲すなり)

壽永三年(1184)

正月

五日(きのと)未。陰晴定まらず。
御堂に参る。恒例の弥勧講に依りてなり。
この間前源
中納(雅頼)言來たる。
仍て大将相共に
(こう)()の座に着かしめ、余簾中にあり。
講演了り、布施(公卿等これを取らず)を置く後、余佛前(堂中他所便宜無き故なり)
に出で、納言を招き入れ、謁談
(とき)を移す。
語りて云わく、頼朝の軍兵
墨俣(すのまた)にあり。
今月中入洛すべき由、聞く所なり。
日没に及び退出し終んぬ。
余帰宅の後、右中辧行隆來たる。
余簾前に召し、
大佛(東大寺)の間の事を問う。
左の御手已に
()奉り終んぬ。
凡そ今年の内功を終るべきこと、
聖人(俊乗房重源)申す所なり。
又云わく、宋朝の鋳師の外、聖人の沙汰として、河内国の鋳師を加える。
宋人不快の色ありと雖も、かれこれを誘い、今に於ては
和顔(わげん)し終んぬと云々。
この次、
()(中辧)語りて云わく、わが子息男女を論ぜず、霊魂の託する事あり。
大乱の時に及び必ずこの事あり。
所謂(いわゆる)()()()(1156年)に宇治(藤原)大臣(頼長)等の霊魂なり。
言う所の事、掌を指すが如く皆以て符合する。
奇異と謂うべし。
この事敢えて口外せずと云々。
余問いて云わく、当時その事ありや。
答えて云わく、近くは則ち一昨日(三日)託言の事あり。
その趣、西海
(安徳)()再び都城に帰るべし。
日本国の神明併しながら加護あり。
神璽宝劔(しんじほうけん)、安穏に相具し奉られるべきなり。
而るに相従い奉る輩の中、重事を量るべき器無し。
仍て恐らくは自ら神慮に
(そむ)く事あらんか。
若し然らば三神紛失せんとす。
悲しむべしと云々。
但し十の八九は都に帰る運ありと云々。
又云わく、凡そ武士等滅亡すべき期なり。
天下を乱さんとする意趣に於ては、思いの如く遂げ終んぬ。
今に於ては、天下
静謐(せいひつ)に属し、われら鎮まり()らんとすると云々。
但し
(しん)()を立てられるに於ては、全く望む所にあらず、
(香川県)(東部)
の墓所の邊一堂を立つべし。
又佛事を修すべしと云々。
又云わく、義仲久しかるべからず。
頼朝又然るべし。
平氏若し運あるか。
()べてその所行に依るべしと云々。
即ち亥
(午後)(11時)りに及び退出し終んぬ。
この託言の事、
後鑒(こうかん)のためこれを記す。
奇異と謂うべきか。
今日甘
攝政(師家)(すい)(にち)に依り叙位無しと云々。


六日
(ひのえ)申。天晴。風吹く。
夜に入り
刑部卿(ぎょうぶきょう)頼輔來たる。
この日叙位と云々。
或人云わく、坂東武士已に墨俣を越え美乃に入り終える。
義仲大に
怖畏(ふい)を懐くと云々。今日大将の第に向い、深更に及び帰り來たる。


九日
(つちのと)亥。
伝へ聞く、義仲平氏と和平の事已に
一定(いちじょう)
この事去年の秋の
(ころ)より連々謳歌、様々の異説あり。
(たちま)
ちに以て一定し終んぬ。
去年月迫る比、義仲一尺の鏡面を鋳て、
八幡(岩清水)(或説熊野(三山))の御正體を
顕し奉り、裏に
起請文(きしょうもん)(仮名云々)を鋳付けこれを遣わす。
これに因り和親すると云々。


十日
(かのえ)子。
夜に入り人告げて云わく、明晩義仲法皇を具し奉り、
決定(けつじょう)北陸に向うべし。
公卿多く相具すべしと云々。
これ浮説にあらずと云々。


十一日
(かのと)丑。朝間雨下り、午後天晴れる。
この日密々女房等を南京に遣わす。
世間の
物忩(ぶっそう)に依りてなり。
(兼實)(家司)
の母尼南都に下向す。
これを以て名と爲す。
今暁義仲の下向
(たちま)ちに停止する。
物の告げあるに依るなりと云々。
來たる十三日平氏入京すべし。
院をかの平氏に預け、義仲近江国に下向すべしと云々。
(院の臣)(のりすえ)院の御使となり來たり、崇徳院の佛祠の間の事を問う。
先例を問わる後、沙汰あるべき由、申し終んぬ。


十二日
(みずのえ)寅。朝間雨下る。晩に及び大風。
この日大将女房又南都に下向する。
但し
(刑部)()入道日來中川(山寺なり)にあり。
その所に遣わすなり。
伝へ聞く、平氏この両三日以前使を義仲の許に送りて云わく、再三の起請に依り、
和平の儀を存せし處、猶法皇を具し奉り北陸に向うべき由、これを聞く。
已に謀叛の儀たり。
然れば同意の儀を用意すべしと云々。
仍て十一日下向
(たちま)ちに停止し、今夕明旦の間、第一の郎従(字(楯六郎親忠)
と云々)を遣わすべく、即ち院中守護の兵士等を召し返し終んぬと云々。


十三日
(みずのと)卯。天晴。
今日払暁より未
(午後)(2時)に至るまで義仲東国に下向の事、有無の間変々七八度、
遂に以て下向せず。
これ近江に遣わす所の郎従飛脚を以て申して云わく、
九郎(源義経軍)の勢優に千余騎と云々。
敢えて義仲の勢に敵対するものではない。仍て
(たちまち)に御下向する必要はないと云々。
これに因り下向延引すると云々。
平氏
一定(しかとして)今日入洛すべき處、然らざる條三の由、緒ありと云々。

一は、義仲院を具し奉り北陸に向うべき由、風聞の故。

二は、平氏武士を丹波(京都)()に遣わし郎従等を催さしめる。
仍て義仲又軍兵を遣わし相防がせる。
然る間、平氏和平を
一定(いちじょう)し了り、仍て事一定の後、脚力を遣わし引き退く
べきこと仰せ遣わす處、猶合戦を企て、平氏方の郎従十三人の首已に
(つる)し終
んぬと云々。
これに因り心を置き遅怠す。

三は、行家渡野陪(わたのべ)に出で逢いて、一箭(いっせん)射るべきこと称せしむと云々。
この事に因り遅々す。
縦横の説信を取り難しと雖も、浮説にあらざるに依りこれを記す。


十四日
(きのえ)辰。天晴。
伝へ聞く、
大神宮(伊勢神宮)より怪異の由、義仲の許に注進す。その状に云わく、

一、正月一日、雷電の中間、辰巳(南東)より戌亥(北西)方を指して光物千萬、
光りて渡り終んぬと云々。

一、大神宮より北に向いて、()四筋放たれ終んぬ。
一定(いちじょう)なり。

一、雷電二日(まむし)を打寄せられる。
永松
(永松御厨)(伊勢国)真庄(栗真の庄)
安乃々津(安濃津御厨)、惣べて津々に
藻に
(まと)われて、或は二三石、或は四五石、毎(津々)(浦々)皆生きてありたり。
その後両三日を經て紛失し終んぬ。
凡そ昔も今も、
(まむし)海より打ち上げらる事は、伊勢国に侯わず。
件の蛇海東より寄ると云々。

一、天下の大事ちかづき候いにたり。
尤も御用意有て、御祈り候うべしと云々。
これ神官の注文と云々。

或人云わく、関東飢饉の間、上洛の勢幾ばくならずと云々。
實否知り難きか。
(午後4時)、人伝えて云わく、明後日義仲法皇を具し奉り、近江国に向うべしと云々。
事已に
一定(いちじょう)なりと云々。


十五日
(きのと)巳。天晴。
早旦人告げて云わく、御幸停止し終んぬ。
御赤痢病に依りてなりと云々。
義仲独り向うべしと云々。
或は云わく、向うべからずと云々。

隆職
(大夫)
來たり語りて云わく、去夜御斎会の内論義無し。
即位以前たるに依りてなりと云々。
又云わく、義仲征東大将軍たるべきこと、宣旨を下され終んぬと云々。
今日、家の節供
闕如(けつじょ)、余沙汰を致さず。
かくの如き事
(しゅう)し思うべき身にあらざる故なり。


十六日
(ひのえ)午。雨下る。
去夜より京中妓騒す。
義仲近江国に遣わす所の郎従等、併しながら以て帰洛す。
敵勢、數萬に及び敢えて敵対に及んではいけない故と云々。
今日法皇を具し奉り義仲勢
(おおい)に向うべきこと風聞す。
その儀
(たちま)ちに変改し、只郎従等を遣わし元の如く院中を警護し祗候(しこう)すべし。
軍兵(ぐんぴょう)を行家の許に分ち遣わし追伐すべしと云々。
凡そ去夜より今日未
(午後2時)に至るまで、議定変々(ちること)十度に及ぶ。
掌を反すが如し。
京中の周章
(たとえ)を取るに物無し。
然れども晩に及び頗る落居する。
関東の武士少々勢
(おおい)に付くと云々。


二十日
(かのえ)戌。天晴。
物忌
(ものいみ)
なり。
(午後6時)人告げて云わく、東軍已に勢多に付き、未だ西地に渡らずと云々。
相次ぎ人云わく、田原の手已に宇治に着くと云々。
詞未だ
(おわ)らず、六條川原に武士等馳走(ちそう)すると云々。
仍て人を遣わし見せしめる處、事已に真實。義仲方軍兵昨日より宇治にあり。
大将軍美乃守
義広(帯刀先生源)と云々。
而るに件の手敵軍のために打敗られ終んぬ。
東西南北に散じ了り、即ち東軍等追い來たり、大和大路より京に入る
(九條川原邊に於ては、一切狼藉無し。最も冥加なり)。
踵を廻らさず六條の末に到り終んぬ。
義仲の勢
(もと)幾ばくならず。
而るに勢多田原二手に分つ。
その上行家を討たんため又勢を分つ。
独身在京の間この
(わざわい)いに遭えり。
先ず院中に参り御幸あるべきこと、已に御輿を寄せんとする間、敵軍已に襲い來たる。
仍て義仲院を
()て奉り、周章対戦の間、相従う所の軍僅に三十四十騎、敵対する
に及ばざるに依り、一矢をも射ず落ち終んぬ。
長坂方に
(かか)らんと欲し、更に帰りて勢多の手に加わるため東に赴く間、阿波津(粟津)
の野邊に於て伐ち取られ終んぬと云々。
東軍一番手、
九郎(源義経)の軍兵()千波()()()と云々。
その後多く以て院の御所邊に群れ参ずと云々。
法皇及び祗候の輩虎口を免れる。
實に三宝の
(みょう)(じょ)なり。
凡そ日來義仲の支度、京中を焼き払い、北陸道に落つべしと。
而るに又一家を焼かず、一人も損ぜず、独身
梟首(きょうしゅ)せられ終んぬ。
天の逆賊を罰する、宜なるかな宜なるかな。
義仲天下を執る後、六十日を經たり。
信頼(栄華の夢の人物・藤原)前蹤(ぜんしょう)と比するに、
猶その
(おそ)きを思う。今日卿相等院に参ると雖も、門中に入れられずと云々。
入道
関白(基房)顕家(少将)を以て使者となし、両度上書す。
共に答無し。
又甘攝政師家の車に乗り参入する。
追い帰され終んぬと云々。
弾指すべし弾指すべし。
余風病に依り参入せず。
大将又病悩。
仍て参らざるなり。
恐れを爲す恐れを爲す。


二十二日
(みずのえ)子。天晴。
風病
(いささ)か滅あり。
仍て
(ねが)いに院に参り、定長(右衛門權佐)を以て尋問せられる事五箇條、

一、左右無く平氏を討たるべき處、三神()におはします。
この條如何。計らい
(もう)すべしといえり。
兼ねて又公家の使者を追討使に相副い下し遣わす如何云々。
申して云わく、若し神鏡劔璽安全の
(はかりごと)あるべくは、(たちま)ちに追討を
してはいけない。
別の御使を遣わし語らい誘わるべきか。
又頼朝の許に、同じく御使を遣わしこの子細を仰せ合わさるべきか。
御使を追討使に副えられる條、甚だ拠る所無きか。

一、義仲の首を渡されるべきや否や如何。申して云わく、左右ともに事の妨げる
ことはない。
但し
(道理)の出ずる所、尤も渡されるべきか。

一、頼朝の賞如何。
申して云わく、請いに依ることを仰せられるべきか。
然れば又若し恩賞無きわけを存ずるか。
暗に行われ、その由を仰せられる、何事かあらんや。
その官位等の事に於ては、愚案の及ぶ所にあらずといえり。

一、頼朝上洛すべきや否やの事、申して云わく、早く上洛せしむべし。
殊に仰せ下さるべし。参否に於ては、知らし食すべからず。
早速遣わし召すべきなりといえり。

一、御所の事如何。申して云わく、早々他所に渡御(おでまし)あるべし。
その所
八條院(暲子内親王)の御所の外、適切な家無きか。

定員(右衛門權佐)語りて云わく、昨日左大臣(經宗)、左大将(實定)
皇后宮
大夫(實房)、相川大納言(忠親)、押小路中納言(長方)
左右(兼光・經房)大辧等参入し議定あり。
各の申状
大概(たいがい)下官の申状に同じ。
但し平氏追討の間の事、
大臣(經宗)大将(實定)猶劔璽を行方知らず、
追討すべきの趣か。
これ則ち
叡慮(院のお考え)かくの如しと云々(他事、定能(左近衛中将)卿密に
これを示す)。
各形勢に従わるなり。
そのようなことをしてはいけない。
又首を渡さる事、
長方(押小路中納言)卿云わく、若し遠国の賊首を渡される事
かと云々(この事又そのようなことをしてはいけない)。
又賞の事、左大将云わく、
恵美(恵美押勝の乱)大臣(764年)を討ちし時の例に任
せ、
三品(さんぼん)に叙せられる、宜しかるべしと云々(この事又過分なり)。
この外の事一同と云々。
退出了る後、人告げて云わく、
攝政内大臣(松殿師家)、各元の如くのこと仰せ
下され終んぬと云々。
天国を
()てずと雖も、(きさき)これを弃つ。
末世受生の恨み、
宿業(しゅくごう)を尋ね報いんと欲するのみ。
二十五日(きのと)卯。天晴。
今暁大将汗快く出ずる。
その後心地頗る減あり。これ佛法の
(ためし)なり。
今夜大将の女房中川より帰洛する。
大将の病いに依りてなり。
大将今日脚病更に發り、起居通ぜず。
而るに今夜初夜の時、物の気快く發り、その後
(たちま)ち以て行歩、實に霊験
掲焉(けちえん)なる者か。
今日大外記頼業去る二十二日宜下せられる所の事等を注進する。
二十二日
秉燭(へいしょく)に及び、右衛門督(家通(中納言)仗座(じょうざ)に着く。
蔵人左衛門權
(すけ)親雅來たり仰す。
前内
大臣(實定)をして政事を摂行せしむべし。
左近(左近衛)大将藤原()、旧の如く内大臣に還り任ずべきこと。
上卿外座に移り、大外記頼業を召し仰せて云わる(官人候わず。

(そう)
する時を以て(しきみ)を敷かしむ)。
詔書を下されず(去年の例に違わんためと云々)。
又攝政停止の事を仰せられず(上卿執り申されると云々。而るに去年の例を
(はばか)かられると云々)。
氏の長者の宣旨を下されず(三公の上首たる上、先年下され了る故と云々)。
その後近衛亭に於て吉書を覧る(院に参りこれを給わる。
後この事あり。束帯)。
先ず外記(今日の宣旨を覧する)。
次に官方(光雅朝臣)。
次に蔵人(頭中将通資朝臣)。
次に政所(棟範)。
次に又官方(基親)。
未だ夜半に及ばず事
(おわ)んぬと云々。
愚案ずるに、去年十一月十九日以後、行わる所の叙位、
除目(じもく)、詔勅、宣命、
宣旨、官符、昇殿、侍中併しながら用いてはいけない由、宣旨を下されるべきなり。
その故何とならば、逆賊朝務を執り、時人、猶その權に媚び、任ずる所の官、猶その
身に
()び。
仍て
謀叛(むほん)の者と雖も人猶これに帰する。
甚だ以て奇怪。
自今以後、賊臣に
(へつら)う條、後昆をして厳粛たらしめんためなり。
平治治承、この條同じと雖も、皆成人の御宇なり。
仍て号する所皆勅定なり。
更に今度の乱に斉しからず。
君臣共に幼稚、未だ成人の量に及ばず。
法皇又禁固の如し。
何ぞ政事の沙汰に及ばんや。
只偏に義仲一人の最なり。
豈木曾の
下知(げじ)を以て、専ら竹帛(ちくはく)(歴史)の證拠に備へんや。
この條君尤も御存知あるべきなり。
而るに一切思し食さず、人又申し行わざるか。
後に聞く、この事數日を經し後申し行うことあり。
人少しと云々。
然れども期に違う後、尤も見苦しかるべし。
且つ又天気思し食し寄らず。
小人の異見に依り始終無しと云々。
この事二月下旬の比沙汰ありしなり。
仍て追って書き入る所なり


壽永三年(1184)

二月大

十日(つちのと)巳。天晴。
この日
遠忌(おんき)なり。
布施取を光明院に催し送る。
佛經供養等例年の如し。
今日
法印(慈圓)を請じ、余相共に(さんぽうれいじ)等を読む。
先妣
(せんぴ)
(おん)(ため)なり。
夜に入り蔵人右衛門權佐定長來たり仰す。
院宣に云わく、平氏の首等、渡されるてはいけない旨思し食す。
而るに九郎義經、
加羽(三河守)範頼()等申して云わく、義仲の首を渡され、
平氏の首を渡されざる條、
(はなは)だその謂はれ無し。
何故に平氏を渡され(ざる)やのわけ、殊に
(ふさぎ)し申すと云々。
この條如何計らい申すべしといえり。
申して云わく、その罪科を論ずるに、義仲と
(ひと)しからず。
(みかど)外戚(がいせき)等たり。
その身或は卿相に昇り、或は近臣たり。
誅伐を遂げられると雖も、首を渡される條、不義と謂うべし。
近くは則ち
信頼(院側近悪右衛門督)(1160)(六條河原)(斬首)渡されざる所なり。
加之(くわえて)、神璽宝劔猶残りの賊手にあり。無爲に帰來の條、第一の大事なり。
若しこの首を渡されば、かの賊等
(いよいよ)怨心を励ましめるか。
仍て
旁々(ぼうぼう)その首を渡さるべからず。
将軍等只一旦所存を申すか。
子細を仰せられる上は、何ぞ強ちに執り申さんや。
頼朝定めてこの旨を承り申さざるか。
この上の左右は勅定にあるべしといえり。

定長
(主税頭)
云わく、大臣(經宗)内大臣(藤原實定)(大納言)卿等に問われる。
各渡されてはいけないことを申し、一同ずると云々。
定長又語りて云わく、
重衡(三位中将平)申して云わく、書札に使者を副へ(重衡の郎従と云々)、
前内府(平宗盛)の許に遣わし、劔璽を乞い取り進上すべしと云々。
この事叶わずと雖も、
(こころみ)に申請に任せ御覧ずるべしと云々。


十一日
(かのえ)午。雨降る。
この日
大将(良通)灸治(十九所)を加え。
(てん)薬頭(やくのかみ)
和気定成これに参勤する。
牛一頭を賜う。
余行き向い、病いの子細を医師に仰せ聞く。
灸治の後
皈宅(きたく)する。
晩頭に及び院に参る。
平氏誅罸の間、人々多く参入すると云々。
所労(しょろう)に依り今にも遅々する所なり。
八條院
(暲子内親王)
御同宿なり。
定長(右衛門權佐)を以て見参に入る。
仰せて云わく、彼岸の間
念誦(ねんず)暇無きに依り、仍て謁見せず。
所労の由、聞かし食す。
参らずと雖も同じ事なり。
世上の事成敗に迷い終んぬ。
自今以後と雖も、尋ね仰せられる事、
(せんかい)無く申さしむべきなり。
(そもそも)平氏の首の事、計らい申す旨然るべし。
又人々渡してはいけない問い申す。
而るに将帥等殊に
(ふさぎ)申し、その上、(あながち)に又恡惜(吝嗇)(・りんしょく)及ぶべからず。
仍て渡すべきこと仰せ終んぬと云々。
承り了る由を申し
(おそれ)る。
即ち女院の御方に参り、女房に謁見し、暫くありて退出す。
伝へ聞く、入道
関白(基房)、院の御気色殊に快からずと云々。
内々仰せて云わく、禅門
攝政(基房)を推挙すべきことを頼朝(朝臣)の許に示し遣わす
(去年七月乱の後の事と云々)。
頼朝
口入(くちいれ)す能われざることを答えると云々。
又仰せて云わく、去年七月、当時攝政改められるべき儀あり。
時に入道十二の
亜相(あそう)を挙げる。
朕許されず。

右府
(兼實)
当仁のわけを存ず。
而るに
禅門(基房)申して云わく、摂籙(せつろく)若し右府の家に入られば、永くかの家に留るべし。
わが恥を
(そそ)ぐべからず。
仍て本人を改められるべからず。
且つこの申状に依り動揺無しと。
而して禅門又申して云わく、然らば一所庄々、少々分ち賜うべしと云々。
朕答えて云わく、攝政
(うじ)の長者改易無くば、何ぞ所領の違乱に及ばんや。
(それ)
は、今義仲の乱逆の時に当り、十二の攝政を補し、數百の庄園を領す。
これ則ち朕先日攝政の家領
(たやすく)分ち難きことを示すに依り、事をこの勅言
に寄せ、一所も遺されず押領すると云々。
次第甚だ
(ふさぎ)思し食す所なりと云々。
又去冬西国の御幸あるべき由、義仲申し行う時、隆憲を以て使となし、
禅門(松殿)
(しき)
りに勧め申さる。
この事又忘れ難しと云々(已上院の仰せ)。
この事等
(たし)かなる説を以て聞く所なり。
又聞く、平氏の許に書札を遣わし、音信を通ずる人、
(あげて)計らうべからず。
王侯卿相、被官、貴賤上下、大都洛人残る輩無し。
就中、院の近臣甚だ多しと云々。
余この事を聞くと雖も、敢えて相驚かず。
一切この恐れ無き故なり。
これを以てこれを思うに、
(藤原)の道、(こいねが)いて猶庶うべきものか。
彼岸の所作今夜結願し終んぬ。


二十三日
(みずのえ)午。
大夫史
隆職(小槻たかもと)、近日下さるべき宣旨等これを注進する。
仍てこれを続け加える施行、更に以て叶ってはいけない事か。
法ありて行われず。
法無きに如かず。

応に散位源朝臣頼朝をして前内大臣平朝臣()以下党類を追討せしむべき事

右左中辧藤原朝臣光雅宣を伝へ、大臣(經宗)宣す。
勅を奉る。
前内大臣以下党類、近年以降専ら邦国の政を乱る。
皆これ氏族のためなり。
遂に王城を出で、早く西海に赴く。就中山陰山陽南海西海道の諸国を
掠領(りゃくりょう)し、
偏に
(すなわち)(みつぎもの)を奪取する。
これが政途を論ずるに、事常篇に
(とだ)えたり。
宜しくかの頼朝をして件の輩を追討せしめるべしといえり。

  壽永三年正月二十六日左大史小槻宿禰(すくね)

 応に散位源朝臣頼朝をしてその身源義仲の餘黨を召し進めるべき事、

右左中辧藤原朝臣光雅宣を伝へ、大臣(經宗)宣す。
勅を奉る。
謀反の首義仲の餘黨、遁れて都鄙(みやこと田舎)にある由、普くその聞えあり。
宜しくかの頼朝をして件の輩を召し進められるべしといえり

  壽永三年正月二十九日 左大史小槻宿禰

    五畿内七道諸国同じくこれを下知する。

 応に散位源朝臣頼朝をして且つは子細を捜し尋ね言上を經て、且つは武勇の輩の
神社佛寺并に院宮諸司及び人領等を押妨するを停止に従わしむべき事、

右近年以降、武勇の輩皇憲を憚からず、(ほしいまま)に私威を耀(かがやか)し、自ことをな
し、文を下し諸国七道に廻し、或は神社の神供を押し
(けが)し、或は佛寺の佛物を奪い
取る。
況んや院宮諸司及び人領をや。
天譴(てんのとがめ)遂に(あら)われ、民の憂い定まること無し。前事の云存(いぞん)、後輩慎
しむべし。
左中辧藤原朝臣光雅宣を伝へ、
大臣(經宗)宣す。
勅を奉り、自今以後、永く停止に従い、敢えて更に然ることなかれ。
但しこと緒ある者に於ては、かの頼朝子細を相
(たずね)られ、官に言上し、若し制旨に
(したが)わず、猶違犯せしたとき、専ら罪科に處し曾て寛宥せずといえり、

  壽永三年二月十九日左大史小櫛宿禰

左辧官(五畿内諸国七道諸国に下すこれに同じ)。

 応に早く国司に仰せ公田庄園の兵粮米を宛て催しを停止すべき事、

右治承以降、平氏の党類暗に兵粮と称し、院宣を(かす)めなし、(ほしいまま)に五畿七道
の庄公に宛て、已に敬神尊佛の洪範を忘る。
世の衰微、民の
凋弊(ちょうへい)、職としてこれに由れり。
況んや源義仲その跡を改めず、
(ますます)この悪を行い、曾て朝威を失い、共に幽冥に背く。
(ここ)に散位源朝臣頼朝、幾日を廻さず西賊を討滅す。
然れば則ち干戈永く
(おさ)まり、宇宙静謐(せいひつ)する。
權大納言藤原朝臣忠親宣す。
勅を奉り、早く諸国司に仰せ、宜しく件の催しを停止すべしといえり。
諸国承知せよ。宣に依りこれを行う。

  壽永三年二月二十二日  左大史小槻宿禰  中辧藤原朝臣。

 

 

 

 

(参考文献)すみや書房昭和41年発行原文「玉葉」中巻三十八~「玉葉」下巻四十

(発行)木曽義仲をNHK大河ドラマに誘致する会

(監修)木曽古文書歴史館長    木曽義仲33代  木曽義明

(解説)木曽義仲をNHK大河ドラマに誘致する会事務局

特定非営利活動法人ザ義仲  丸山勝己ひえい

 

平成24年5月改訂版

















































































































































































































































































































































































                                                                              
































2015/6/25~

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