土田御前(どたごぜん)


土田御前 系図
 佐々木六角氏(宇田源氏佐々木氏の流れで、鎌倉時代から戦国時代にかけて近江国南部を中心に勢力を持った武家・守護大名)後裔土田政久の息女。織田信秀の継室であるが、信秀の死後、次男・信行と共に末森城に住んでいた。うつけと呼ばれた信長を嫌い、品行方正な信行を可愛がったが、信長と信行の家督争いで信行が敗れると、信長に信行の赦免を願い出、一度は赦させた。しかし、後に信行は再び信長への反逆を図ったため信長に誅殺された。信行の死後は信長や市と共に暮らし、幼かった信長や市の子供たち(信忠、信雄、信孝、茶々、初、江など)の面倒を見ていた。本能寺の変で信長と孫の信忠が自害した後は、孫の信雄(のぶかつ)の庇護のもとにあり、「大方殿様」と尊称され、640貫文を化粧料として与えられていた。天正18年(1590年)の信雄の改易後は伊勢国安濃津の信包(のぶかね)のもとに引き取られ、文禄3年(1594年)正月7日に同地で死去した。

土田御前と吉法師(信長)
 
土田御前の墓(津市四天王寺)

 土田御前回想(文禄二年冬)

わらわは織田信長殿の生母で、皆から土田御前と呼ばれておりまする。宇田源氏佐々木流の末裔土田政久の娘として、美濃国可児郡土田庄に生まれたからでしょう。天文二年(1553年)尾張の織田信秀様に嫁ぎ、翌年嫡男吉法師(後の信長)を授かりました。その尾張の大うつけと呼ばれた信長殿が、あのような数奇な運命を辿ることになろうとは、どなたが想像できたでしょう。そして、末娘の市は北近江国の浅井長政殿にご縁があり、三姉妹に恵まれます。この孫娘たちも波瀾万丈の生涯をむかえることとなります。長女茶々は、関白秀吉殿に。次女初は、小浜藩主京極高次殿へ。三女江は、征夷大将軍徳川秀忠殿へ嫁ぎ、天皇様ご縁が結ばれたのには驚嘆いたしました。戦国乱世の荒波に翻弄された人生ではございますが、それでも、幼少のころ無心に戯れ遊んだ土田の風景を懐かしく想い出します。見知らぬ信秀様に嫁ぐおり大脇湊の船からの鳩吹山、木曽川の奇岩の美しさは決して忘れるものではございません。今はただ信包殿と伊勢国安濃津城にて信行殿や信長殿、信秀様の法要を済ませひっそりと暮らしております。


可児市土田湯の華アイランド内
 

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